嵐田村(読み)あらしだむら

日本歴史地名大系 「嵐田村」の解説

嵐田村
あらしだむら

[現在地名]国富町嵐田

本庄ほんじよう川を隔てて本庄村の南に位置し、西は田尻たじり村。鎌倉時代初期、佐々木(野村)盛蓮は近江から日向へ下向し、諸県郡嵐田名を知行したという(佐々木系図)。「日向記」によれば、鎌倉時代末期頃、伊東祐宗の三男惟祐には男子がなかったため惟祐の弟祐範の子を養子とし、嵐田と丹後国吉里を譲り渡したと伝える。応永二〇年(一四一三)九月二五日の島津久豊宛行状(樺山文書)によれば、薩摩・大隅・日向国守護島津久豊は「諸県庄内嵐田四拾町」を樺山教宗に給分として宛行っている。大永(一五二一―二八)の頃伊東祐充らの祖父であった福永伊豆守は米良衆を近づけ、嵐田を与えたと伝える(日向記)。戦国期の伊東氏の神社領支配の内容を示す弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によれば、嵐田歳神領として「あらし田」内に水田三段(うち一段河成)があったほか、本庄八幡宮の社田のなかに嵐田内の抜木瀬寺の田一町九段余があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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