諸県郡
もろかたぐん
北は児湯郡と肥後国、東は宮崎郡、南西は大隅国に接する。日向国の南部の海岸沿いの地域を除く広大な郡。大淀川は数多くの支流をもつが、支流域の大部分と大淀川の中流・上流域および川内川の上流の加久藤盆地を中心とする地域が当郡域に相当する。当郡の読みに関して、「和名抄」名博本はムナカタとし、「延喜式」民部省にはモロカタ、建久図田帳の応永二八年(一四二一)二月二七日の追記にはムラカタと訓が付される。
〔古代〕
「和名抄」によれば、当郡は財部・県田・瓜生・山鹿・穆佐・八代・大田・春野の八郷からなり、現鹿児島県財部町を中心とする一帯に比定される財部郷を除き、他の七郷はほぼ宮崎県内に所在したと考えられる。諸県地方は記紀に登場する諸県君の本拠地であったと考えられる。「日本書紀」景行天皇一八年条には夷守の岩瀬川のほとりにおける諸県君泉媛の服属の話がある。この説話は、応神・仁徳期にみえる諸県君牛諸および髪長媛に関する説話の伏線となっており、朝廷の重要な歌舞に諸県舞が存在することなどから、応神・仁徳期に諸県地方がヤマト王権の勢力下に入っていたことは確実である。諸県郡内の高塚古墳の分布をみると、現国富町の本庄古墳群が抜きん出た存在であり、それ以外では都城盆地の北側の縁辺部、加久藤盆地に散見できるにすぎない。したがって当郡の主要部は、「日向国史」が述べるように「東北部なる本庄、高岡、八代、及び現今宮崎郡に入れる瓜生野等の地方」であったと考えられる。また郡内一円に地下式横穴墓が分布し、西端部にあたる川内川上流域には地下式板石積石室もみられる。「日向国史」は、志布志(現鹿児島県志布志町)から大崎(現同県大崎町)・串良(同県串良町・東串良町)にかけては古墳の多いところであることから春野郷を比定する。しかし志布志地方が日向国に属したとした場合も、日南海岸沿岸部の延長上にあることから郡衙との連絡を考えると宮崎郡に属するほうが自然である。また大崎より串良にかけて所在する古墳は大隅直氏など大隅国の勢力に関係すると考えられるので、大隅国分立以後、志布志地方が日向国に含まれていたとは考えにくい。したがって志布志地方は諸県郡には含まれなかったと考えられる。
諸県の語義に関して、「太宰管内志」は多くの県のあったところに由来するとし、「日向国史」は「諸の県」の義か、あるいはもとたくさんの県のあった地方という意味であろうとする。
諸県郡
もろかたぐん
日向国南西端を占める大郡。このうち現鹿児島県域に属するのは郡南部の志布志湾沿岸とその内陸部一帯で、南西は大隅国肝属郡、西は同国贈於郡に接する。
〔古代〕
「和名抄」名博本は「ムナカタ」と読み、同書東急本国郡部では「牟良加多」の訓を付す。財部・県田・瓜生・山鹿・穆佐・八代・大田・春野の八郷を載せ、日向国内では国府所在郡の児湯郡と並んで最大の郡である。八郷のうち財部郷が現曾於郡財部町から宮崎県都城市にかけての地域に比定される。県内では最も早く大和政権の勢力が及んだ地域とみられ、現志布志町夏井の飯盛山古墳は五世紀中頃の前方後円墳、現大崎町横瀬の横瀬古墳は五世紀後半の前方後円墳である。これらの古墳は西都原(宮崎県西都市)・本庄(同県国富町)などの古墳群の延長線上に位置づけられる。高塚古墳の分布は、当地域を経て大隅国肝属郡に及んだとみられる。「大隅国風土記」逸文には必志里の地名がみえ、現大崎町の志布志湾に面する菱田の地に比定する説がある。
古代の諸県郡は広域にわたるが、大きくは大淀川水系で、この地域には景行期に諸県君泉媛という女酋が勢力を張っており(「日本書紀」景行天皇一八年条)、応神期は諸県君牛諸井が蟠踞していた(同書応神天皇一一年条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 