川島理一郎(読み)カワシマ リイチロウ

20世紀日本人名事典 「川島理一郎」の解説

川島 理一郎
カワシマ リイチロウ

大正・昭和期の洋画家



生年
明治19(1886)年3月9日

没年
昭和46(1971)年10月6日

出生地
栃木県足利市

学歴〔年〕
正則英語学校,コーコラン美術学校(米国ワシントン)〔昭和40年〕卒,ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン卒

主な受賞名〔年〕
勲三等瑞宝章〔昭和40年〕

経歴
明治38年渡米、美術学校、デザイン学校卒業後、44年渡仏し、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシに学ぶ。大正2年サロン・ドートンヌに日本人として初入選し、11年同会会員となる。12年帰国し、15年梅原龍三郎と国画創作協会洋画部(のち国画会)を創設し会員。昭和10年国画会退会。11年女子美術学校(のち女子美術専門学校)教授。23年日本芸術院会員に推挙され、30年新世紀美術協会の創立に参加。44年日展顧問。代表作に「伎場の図」「蘭花」などがあり、随筆集に「旅人の眼」「緑の時代」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「川島理一郎」の意味・わかりやすい解説

川島理一郎
かわしまりいちろう
(1886―1971)

洋画家。栃木県足利(あしかが)市生まれ。幼少から東京に住み、1905年(明治38)渡米してワシントンのコーコラン美術学校ほかで学ぶ。11年パリへ移り、アカデミー・ジュリアン、ついでアカデミー・コラロッシに学び、サロン・ドートンヌに出品、19年(大正8)に帰国する。その後もしばしば渡欧を重ねた。26年国画創作協会洋画部(のちに国画会)を梅原龍三郎と創設したが、35年(昭和10)に退会。翌年から女子美術学校の教授となり、改組後の文展審査員を務める。48年(昭和23)日本芸術院会員となり、日展に出品、また新世紀美術協会の名誉会員となる。晩年は抽象作風に転じた。

[小倉忠夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川島理一郎」の解説

川島理一郎 かわしま-りいちろう

1886-1971 大正-昭和時代の洋画家。
明治19年3月9日生まれ。38年渡米,コーコラン美術学校などでまなび,のちパリへうつる。帰国後,大正15年梅原竜三郎と国画創作協会洋画部(のちの国画会)を創設。昭和11年女子美専(現女子美大)教授。芸術院会員。フォービスム風から晩年は抽象的作風に転じた。昭和46年10月6日死去。85歳。栃木県出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「川島理一郎」の解説

川島 理一郎 (かわしま りいちろう)

生年月日:1886年3月9日
大正時代;昭和時代の洋画家
1971年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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