日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワシントン」の意味・わかりやすい解説
ワシントン(市)
わしんとん
Washington
アメリカ合衆国の首都。1878年以来、ワシントン市の範囲と連邦直轄地のコロンビア特別区District of Columbiaの範囲が一致しているので、正式にはワシントンDCWashington, D. C.とよばれる。面積174平方キロメートル。人口57万2059、大都市圏人口760万8070(2000)。ポトマック川沿いにあり、北部と東部はメリーランド州、西部はポトマック川を隔ててバージニア州に接している。海岸平野とピードモント台地の境界付近に位置するが、ほぼ平坦(へいたん)で、北部になだらかな丘陵地が存在するだけである。気候は夏が高温湿潤で、冬の気温が下がる。年降水量は1008ミリメートルで、平均気温は1月で1.8℃、7月で26.1℃である。
1790年、ワシントン大統領はメリーランド州とバージニア州から割譲されたポトマック川沿いの土地に、合衆国の首都として1辺10マイル(16キロメートル)のコロンビア特別区を建設することに決定し、フランス人のピエール・ランファンに首都の建設計画を作成させた。ランファンの計画は、連邦議事堂を中心に南北と東西のキャピトル・ストリートを基準にした碁盤目状の道路網(ストリートとよばれる)と、連邦議事堂やホワイトハウス(大統領官邸)などを中心とする放射状道路網(アベニューとよばれる)を組み合わせ、さらに各所に広場や公園を設けたものであった。しかし、資金の不足から建設計画は遅れ、公式に合衆国の首都となって第2代大統領ジョン・アダムズがフィラデルフィアから移ってきた1800年でも、連邦議事堂と大統領官邸は建設中であった。02年、コロンビア特別区にワシントン市が成立したが、ワシントン市の範囲とコロンビア特別区の範囲は一致していなかった。12年にイギリスの軍隊がワシントン市に侵入し、連邦議事堂や大統領官邸その他の公共の建物に火を放った。それらの再建に数年を要し、首都の建設計画はさらに遅れた。46年にポトマック川右岸のバージニア部分はバージニア州に返還され、78年にジョージタウンがワシントン市に編入されたことにより、ワシントン市とコロンビア特別区の範囲は一致するようになった。南北戦争後にポトマック公園が建設されたのを初めに、20世紀に入ってからはランファンの計画と調和する公共建築物が次々と建設され、壮大なプランが実現されていった。1930年代のニューディールの時代に連邦機関と公務員が増加し、人口も急速に増加した。また、1960年代にはスラム解消を含む市街地改造計画が実施された。
ワシントンDCはアメリカ合衆国の行政・立法・司法の諸機関が集中した都市で、製造業はあまりない。第一の産業は観光で、最大の雇用主は連邦政府である。連邦政府の職員はワシントンDCの就業者数の約45%を占めている。連邦議事堂の周囲には議会図書館、最高裁判所、上院・下院議員会館が並び、連邦議事堂とホワイトハウスを結ぶペンシルベニア・アベニュー沿いには国立公文書館、司法省、FBI(連邦検察局)、国税局などが並び、連邦議事堂とワシントン記念塔の間にはナショナル・ギャラリーや、スミソニアン研究機構科学博物館群の自然史博物館、歴史技術博物館、航空宇宙博物館などが並んでいる。北西部のマサチューセッツ・アベニューには全世界の大公使館が集中している。また、貿易、労働、科学、教育などの国際的あるいは全米的機関や協会などの本部が集中し、ワシントンDCにある全米的機関や協会の数は約2000に達する。さらに、ワシントン記念塔(高さ169メートル)、リンカーン記念堂、トーマス・ジェファソン記念堂などの記念物や、タイダル・ベイズンを取り巻く桜並木、ポトマック川対岸のアーリントン墓地、無名戦士の墓などの観光資源に富む。ワシントンDCには、都心部の西約42キロメートルに位置するワシントン・ダレス国際空港と、南約5キロメートルに位置するワシントン・ナショナル空港があり、前者は国際線と長距離国内線の発着に使用されている。教育でも重要な役割を果たし、ジョージタウン大学、ジョージ・ワシントン大学、ハワード大学、アメリカン大学がある。人口は1990~2000年に約6%減少し、逆に大都市圏人口は同じ期間に約13%増加し、都市内から郊外への人口流出が顕著である。都市内のアフリカ系アメリカ人人口率は61.3%(2000)で、合衆国の大都市のなかでは最高である。
ワシントンDCはどの州にも属さず、連邦政府の直轄地であるため、連邦上院・下院のコロンビア特別区委員会が特別区の行政を監督しているが、1970年代中ごろからその監督権は制限され、住民の選んだ市長と市議会が行政と条例制定を担当している。61年には大統領選挙の投票権を与えられ、78年にはワシントンDCから2名の上院議員と少なくとも1名の下院議員を選出する憲法修正法案が議会を通過したが、わずか16州の賛成しか得られず、廃案となった。
[菅野峰明]
ワシントン(George Washington)
わしんとん
George Washington
(1732―1799)
アメリカ合衆国初代大統領(在任1789~1797)。「建国の父」といわれる。
[池本幸三]
農園経営
バージニア植民地ウェストモーランド郡出身。2月22日生まれ。主として父と義兄から教育を受け、土地測量官として出発。1752年、マウント・バーノン農園を義兄の遺産として相続した。フレンチ・アンド・インディアン戦争(1754~1763)では民兵軍士官として従軍、オハイオ川地方に進出するフランス軍に対し、イギリス軍に協力して戦い、戦功をあげた。1759年富裕な未亡人マーサ・カスティスと結婚して農園経営を拡大するとともに、バージニア代議会議員(1759~1774)を務めるなど、典型的なジェントルマン・プランターの道を歩んだ。彼は当時、黒人奴隷制に基づくタバコ生産に行き詰まり、穀物生産やマニュファクチュア、さらに西部土地投機に打開策をみいだそうとした。それだけに、七年戦争(1756~1763)後の本国による重商主義強化策、とりわけ植民地人の西部進出禁止策(1763年の国王宣言、1774年のケベック法)に反発し、しだいに独立、ひいては広大な西部を領土とするアメリカ帝国の樹立に傾くようになっていった。
[池本幸三]
総司令官から大統領へ
1774年、大陸会議開催とともに、バージニア代表となり、翌年、イギリス本国との武力衝突が起こるや、13植民地全体の大陸軍の総司令官に推された。以来、約10年、地域割拠主義や反軍感情のなかで、無規律、貧弱な装備・補給の農民兵を訓練しつつ、ヨーロッパ一のイギリス正規兵およびドイツ人傭兵(ようへい)と戦った。正面衝突では再三敗北を喫したため、戦略的防衛に徹するようになり、機をみて奇襲を敢行し、持久戦に持ち込んだ。1777年末から半年に及ぶバレー・フォージの飢えと寒さの野営は、独立戦争の苦難を象徴する。1778年フランスとの同盟成功後、主戦場となった南部でゲリラ戦が活発化し、1781年コーンウォリス軍をヨークタウンに包囲して、これを降伏させ、事実上、独立戦争に終止符を打った。講和とともにふたたび農園生活に戻ったが、1787年フィラデルフィア連邦憲法制定会議には議長に推され、弱体な連合政府にかわるより強力な中央政府の樹立に貢献した。さらに1789年には、満場一致で合衆国初代大統領に選ばれ、1792年再選された。
[池本幸三]
業績
大統領としては、概してハミルトンの財政政策によりつつ、フェデラリストと反フェデラリストとの均衡を図ったが、1794年の「ウイスキー反乱」(ペンシルベニア西部農民によるウイスキー課税反対、反中央権力の反乱)には、自ら出動して鎮圧し、国家の威信を示した。外交面では、フランス革命戦争が勃発(ぼっぱつ)(1789)するや、中立を宣言、またイギリスおよびスペインとそれぞれジェイ条約、ピンクニー条約を結んで、国交の調整に貢献した。大統領3選の弊害を考え、1796年引退を決意し、有名な「別離の辞」Farewell Addressを発表して、党争や外国との紛争を戒め、これが孤立主義外交の伝統の発端となった。1799年12月14日、マウント・バーノンで死去。合衆国議会は彼の死を悼んで、「戦争においても、平和においても第一人者、そして国民の心に浮かぶ最初の人」という賛辞を贈った。死の直後から彼を国民的英雄として神格化する動きが盛んとなり、多くの神話を生んだ。
[池本幸三]
『今津晃著『ジョージ・ワシントン』(猿谷要・城山三郎・常盤新平編『人物アメリカ史 第一巻 自由の新天地 1620―1828』所収・1984・綜合社)』
ワシントン(州)
わしんとん
Washington
アメリカ合衆国、北西端部太平洋岸の州。面積17万6616平方キロメートル。人口589万4121(2000)。州都オリンピア。北はカナダ、東はアイダホ州、南はオレゴン州、西は太平洋に面しており、南境をコロンビア川が流れる。地質的にはまだ若く、地域的には南北を走るカスケード山脈(最高峰は4392メートルのレーニア山)を境に、3分の2の面積を占める東部と、西部に分かれる。東部は海抜150~180メートルのコロンビア溶岩台地が広がり、ほとんどが乾燥・砂漠地域であるため、スポーカンを除けば、主として農業収益に依存せざるをえない。しかし、豊富な水には恵まれ、北東部から南流して州南境を形成するコロンビア川はミシシッピ川に次ぐ流水量(河口部で毎秒7419立方メートル)を誇り、国内第3位の発電能力を有する重要水系である。ほかにスネーク川、ヤキマ川など重要河川をもち、グランド・クーリー・ダムを筆頭に、州内には90近い水力発電用ダムが建設されている。東部とは対照的に、西部はカスケード山脈西側にピュージェット・サウンド低地が、北西部には国内最大の大雨林地帯であるオリンピック半島が、南西部にはウィラパ丘陵と海岸平野が広がる。温暖湿潤の気候に恵まれる州西部には総人口の4分の3が集まり、とくに最大都市のシアトルやタコマ、オリンピア、ベルビュー、エバレットなどの主要都市がピュージェット・サウンド低地に集中し、政治・経済・社会・文化の中心を形成する。
木材、水産物、鉱物などの豊富な天然資源が、古くから同州の産業の発達に大きなかかわりをもってきた。なかでも木材は18世紀から重要な地位にあり、現在でも製材、パルプ、製紙などの木材関連会社や工場が多い。また、現在州経済の大黒柱となっている航空・宇宙産業は、1940年以降工業化が進み、従業員7万人余を有するボーイング社がその要(かなめ)をなす。その他、食品加工業や安い電力を利用してのアルミニウム精錬、電気化学が発達し、金属、機械、印刷・出版などもある。農業は、東部を中心に小麦、ジャガイモ、アスパラガス、リンゴ(全米第1位)やブルーベリー、ラズベリーなどの果樹栽培が行われる。また、牧畜も行われるほか、漁業はサケ漁を中心に、カキ、カニなどがとれる。
16世紀中ごろから各国の探検隊が現れ始め、1805年にはルイスとクラークがコロンビア川を下り、太平洋岸に達した。イギリス、アメリカ共同統治を経て、1846年にワシントンを含むオレゴン地域は合衆国領となり、53年にはオレゴン準州から分かれてワシントン準州がつくられ、89年に第42番目の独立州に昇格した。ワシントン大学、シアトル大学をはじめ、州立大学、ゴンザガ大学、パシフィック・ルーテル大学、ホイットマン大学などがあり、また、マウント・レーニア、ノース・カスケード、オリンピックと3か所の国立公園を有することでも知られる。
[作野和世]
ワシントン(Booker Taliaferro Washington)
わしんとん
Booker Taliaferro Washington
(1856―1915)
アメリカの黒人運動指導者、黒人教育家。4月5日、バージニア州で奴隷として生まれ、1865年に9歳で解放される。働きながら教育を受け、ハンプトン学院を卒業、教職についたが、81年、黒人のための専門学校タスキーギ大学を創設する任を受け、以後34年間、学長としてその発展に尽くした。黒人の生活向上に役だち、白人の支持と援助も得られるものとして黒人教育を構想したワシントンは、実業教育こそその中心形態であるべきだと主張し、その実践を広めた。95年、アトランタ博覧会で演説し、黒人に対しては社会的平等の要求よりも勤勉に働いて富を蓄えることが先決であると説き、白人に対しては南部の産業発展に黒人が有用不可欠であると訴えたことは、ワシントンを、政治的要求を抑え経済的利益で白人と黒人の和解を目ざすスポークスマンとして一躍有名にした。
彼は、黒人の自助を奨励し、黒人実業家の育成を重視して、1900年には全国黒人実業家連盟を組織、初代会長を務めた。資本家や政治家など有力な白人の支持を獲得したワシントンは、自ら政治家になりこそしなかったが、黒人への援助金や任官の決定に際してはかならず相談を受けるほどの政治力をもち、黒人社会内における批判的な潮流には抑圧も辞さない権力者でもあった。その後ナイアガラ運動がおこされ、全国黒人向上協会が結成されて、ワシントンもしだいに守勢に回らざるをえなくなったが、15年11月14日タスキーギで没するまで、両人種の調停者として果たした役割は大きく、教育家としても国際的な影響力を及ぼした。
日本では、自伝『奴隷より立ち上がりて』Up From Slaveryが訳されているほか、1920年には朝鮮総督府学務局がアメリカの黒人教育について調査研究した報告にワシントンの所論が詳しく紹介されている。タスキーギ大学構内にあるワシントン邸の書斎には、1906年に明治政府が寄贈した黒檀(こくたん)の椅子(いす)が保存されており、それ以前にワシントンが日本に知られていたことがわかる。
[中村雅子]
『稲澤秀夫訳『奴隷より立ち上がりて』(1969・真砂書房)』
ワシントン(Henry Stephens Washington)
わしんとん
Henry Stephens Washington
(1867―1934)
アメリカの地球化学者。ニューアークに生まれる。エール大学に学び、世界各地の遺跡発掘に従事したが、のちにドイツに渡りライプツィヒ大学のツィルケルFerdinand Zirkel(1838―1912)の下で岩石学を学び、学位を受けた。1912年以来、カーネギー研究機構の地球物理学実験所で火成岩の化学組成の研究に従事した。著書『岩石の化学分析』(1904)は世界中で教科書として使われた。また、1902年クロスCharles Whitman Cross(1854―1949)、イディングスJosef Paxon Iddings(1857―1920)およびピアソンと共同で、火成岩の定量的分類法であり、4人の頭文字をとったCIPWノルム体系を提唱した。1917年には、当時知られていた火成岩の化学分析値数千を集大成し、ノルム体系に基づいて分類配列した大著『火成岩の化学組成』を発表した。
[橋本光男]