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川崎定孝 かわさき さだたか

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

川崎定孝 かわさき-さだたか

1694-1767 江戸時代中期の農政家。
元禄(げんろく)7年3月15日生まれ。元文3年の武蔵(むさし)多摩郡(東京都)の凶作に際し,開墾や玉川上水修復などをすすめる。寛延3年(1750)代官として美濃(みの)(岐阜県)長良川の治水工事にあたった。のち勘定吟味役兼石見(いわみ)銀山奉行。明和4年6月6日死去。74歳。武蔵多摩郡出身。通称は平右衛門。

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朝日日本歴史人物事典の解説

川崎定孝

没年:明和4.6.6(1767.7.1)
生年:元禄7.3.15(1694.4.9)
江戸中期,名主から幕府代官に登用された農政家。通称平右衛門。武蔵国多摩郡押立村(東京都府中市)の名主。水害防止のために多摩川沿いに竹を植林,栗林を仕立て江戸城に栗を献上,江戸にきた象の糞尿を精製し薬として売り出すなど,名主の分限を超えて活躍。享保改革で開発された武蔵野新田が,凶作や入植百姓の離散で危機に陥ると,元文4(1739)年新田世話役に登用され百姓を保護,指導した。寛保2(1742)年の大洪水には多摩川沿いの復旧に尽力。翌3年支配勘定格に昇進,関東の天領3万石を支配。寛延2(1749)年美濃郡代支配下の本田陣屋(岐阜県穂積町)に移り4万石を支配,長良川・揖斐川流域の治水に努力した。宝暦4(1754)年代官に進み引き続き本田を支配。同12年石見大森(島根県大田市)代官となり,衰微した銀山の回復を図る。明和4(1767)年勘定吟味役兼石見銀山奉行に上ったが,2カ月後に病死した。近世中期の農政の課題であった新田開発と治水に尽力し,名代官として赴任地の所々に供養塔や神社が建立されている。<参考文献>『高翁家録』(『国分寺市史 史料集』2巻),渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』

(根岸茂夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典内の川崎定孝の言及

【川崎平右衛門】より

…江戸中期の農政家。名は定孝,平右衛門は通称。武蔵国多摩郡押立村名主の出身。享保改革の一環として推進された武蔵野新田が,1738年(元文3)の大凶作などにより崩壊の危機に直面したときに新田世話役に登用され,新田の復興に尽力し,44年(延享1)代官となった。50年(寛延3)美濃の代官に転出し,67年(明和4)勘定吟味役兼石見銀山奉行に昇進した。のち,彼の徳をたたえた謝恩塔,石碑,神社が建てられた。【森 安彦】…

※「川崎定孝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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