布浦村(読み)ぬのうらむら

日本歴史地名大系 「布浦村」の解説

布浦村
ぬのうらむら

[現在地名]内浦町布浦

松波まつなみ村の南東にあり、南に九里川尻くりかわしり川が東流、東に赤崎あかさき半島が突き出し、赤崎を北端とする海岸からはまつ島・ひら島・あみしき島・こしき島などがみえる。集落は松波寄りに空林そらばやし、半島部に布浦・鹿泊しどまる比那びなの四集落、これらの西方がある。布浦集落を俗に「のんな」と称し、元禄一四年(一七〇一)の郷村名義抄(伊藤文書)は「ノヽウラ」の訓を付す。九里くのり浦は中世には窯跡の分布などから珠洲焼の積出湊の一つとみる説がある。室町末期成立の「驢嘶余」に日野殿存知地として「能州郡モリ(中略)久能利百余貫也」とある。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)には遊佐氏の知行地と記す「赤崎」とともに、久乃利殿の知行地として「久乃利」「立壁」「半尻」(川尻か)がみえる。久乃利氏は九ノ里を本拠地として川尻湾岸を支配する在地領主であった。しかし久乃利氏の支配は継続せず、天正五年(一五七七)一一月一六日の上杉謙信朱印状(志賀文書)に「久乃利浦 百四拾弐貫五百十文、温井下総守分」とあり、同年九月の上杉氏の能登侵攻後は謙信によってその臣島倉泰明に宛行われた。同八年一月一一日、能登奪回を目指す長連竜はその臣小林図書助に「久乃利・たてかべ二万疋之分」を宛行い、同六年以来の馳走を賞している(「長連竜書状」小林文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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