肥後国(熊本県)緑川の川口に発達した河港で,熊本城下町の外港。地名の初出は1199年(正治1)。河尻荘地頭河尻泰明に招かれた寒巌義尹は河尻大渡橋を架橋,1283年(弘安6)大慈寺を草創。鎌倉時代以来海上交通の要地として栄え,明代の図書編に牙子世六(八代),達加世(高瀬)などとともに肥後の港の一つとして開懐世利(かはせり)の名が見える。曹洞宗の開祖道元禅師が宋からの帰途川尻に漂着したと伝えるのも,交通の要所だったことの証であろう。戦国の動乱期に河尻氏が滅び1588年(天正16)加藤清正が領有するに至って加悦飛驒を城代とした。1615年(元和1)破城となる。加藤・細川両氏の治下に,川尻御船手(海軍根拠地)と川尻御蔵がおかれた要地で,特権的な五ヵ町の一つとして位置づけられ,川尻町奉行のもと町別当・丁頭・町横目など町役人がおかれた。熊本から薩摩街道2里の宿場町で,島津公・相良公宿泊の御茶屋があった。明治になって鉄道開通後は港の機能を失った。1940年熊本市に合併。
執筆者:松本 寿三郎
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広島県南部、豊田郡(とよたぐん)にあった旧町名(川尻町(ちょう))。現在は呉市(くれし)川尻町地区。1922年(大正11)町制施行、2004年(平成16)呉市に編入。旧川尻町はJR呉線、国道185号が通じ、背後には高原台地の野呂(のろ)山、前面には瀬戸内海を望む景勝の地にある。古くから漁業中心であったが、今日では中小の金属、機械、造船などの工業があり、毛筆の生産も盛んである。野呂山は展望美に優れ、瀬戸内海国立公園の一部で、山頂へは「さざなみスカイライン」が通じる。下蒲刈(しもかまがり)島とは安芸灘(あきなだ)大橋でつながる。
[北川建次]
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