デジタル大辞泉 「薬師寺」の意味・読み・例文・類語
やくし‐じ【薬師寺】
栃木県下野市にあった寺。天智天皇の時の創建と伝える。天平宝字5年(761)勅命によって戒壇を設け、日本三戒壇の一となった。のち、荒廃したあとに足利尊氏が安国寺を建立。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
本薬師寺の造営は文武天皇二年(六九八)に大体終わっていた。平城京へ移ったのは「薬師寺縁起」によると養老二年(七一八)とされるから、その間わずかの年月を経たのみである。翌三年三月二日初めて造薬師寺司に史生二人が置かれており、平城薬師寺の造営は進行していたと考えられる。同六年七月一〇日には薬師寺が僧綱の常の住居と定められているから、この頃工事は大体終わってきていることを示す。神亀三年(七二六)八月八日、太上(元正)天皇のために釈迦像ならびに法華経を写して薬師寺で斎を設けている(以上「続日本紀」)。「扶桑略記」には天平二年(七三〇)三月二九日に初めて薬師寺東塔を建つとあり、一応伽藍の造営が終りに近づいていたといえよう。東院は吉備内親王によってすでに建てられていたが、西院は天平に入ってから舎人親王によって建てられた。同一七年五月八日、度重なる地震のため、
寺地は平城京右京六条二坊にあり、南は六条大路、西は西二坊大路、北は五条大路を限っていた。東は十二坊とするか、十坊四分の一とするか一定しないが、縁起は築地内を一二町としている。伽藍は南大門を入ると中門があって回廊がめぐらされ、中に東西両塔と金堂があり、金堂の背後に講堂があった。この金堂院の北に経楼・鐘楼が相対し、中央後方に食堂・僧房があった。さらに金堂院の南西に西院、南東に東院があった。
利生山瑠璃光院と号し、天台宗。本尊薬師如来。聖武天皇勅願、行基開基の寺伝を有するが、正確なところは明らかでない。平安期以降の優れた仏像数体が保存されている。現在の本堂はその棟札によって、承応二年(一六五三)別当権大僧都良海が和歌山藩主徳川頼宣の援助によって再興したことがわかる。永禄一二年(一五六九)の大河内合戦の後、茶筌丸(織田信雄)が北畠の養子となるが、和議の成立により当寺へ居住した。「勢州軍記」に、「茶箋丸先居住於船江薬師寺、滝川左近将監一益宿於同浄泉寺、五十日計令逗留、万事仕置之、其外諸侍皆居住於船江也、国司父子到船江城、与茶箋丸有祝儀見参云々」と記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山。南都七大寺・十五大寺の一つ。680年(天武9)天武天皇が皇后の病全快を祈って建立を発願し,持統天皇を経て698年(文武2)藤原京に創建を終わったが,710年(和銅3)の平城遷都にともない,718年(養老2)に平城右京六条二坊に移建された。これが現在の薬師寺であり,旧地(現,奈良県橿原市)を本(もと)薬師寺という。移転後の伽藍地は東西3町,南北4町にわたり,金堂,東西両塔,講堂をはじめ,三面僧坊,経楼,食堂(じきどう)や大炊院,温室院,苑院があり,いわゆる薬師寺式伽藍配置の典型を示していた。南大門の南は花園苑が設けられ,9世紀後半にはこの地に八幡神を勧請し,寺の鎮守とした。722年(養老6)に僧綱所が設けられ,730年(天平2)に東塔が建立され,また大和国の授戒寺として重視された。748年(天平20)ころには薬師寺写経司が存在し,755年(天平勝宝7)ころには薬師寺勘経所が設けられた。808年(大同3)7月に薬師寺木工長上を減員したが,このころまで伽藍の増築が行われていたといえる。830年(天長7)に直世王や別当仲継の上奏で最勝会の設置が勅許され,以後南都三会の一つとなり,官僧の登竜門として重視され,当寺の根本的大会として室町時代ころまで伝えられた。973年(天延1)2月の火災で東塔をのこして炎上したが,大和,伊賀,美濃などを造国にあて,再興された。1096年(永長1)11月の地震で回廊が倒れ,1361年(正平16・康安1)6月の大地震で金堂,両塔が破損,中門,回廊,西院などが倒壊した。1445年(文安2)6月の大風では金堂,南大門が倒れ,72年(文明4)10月には土一揆で最勝会の勅使坊が焼け,1528年(享禄1)9月に食堂,講堂,中門,西塔が兵火で焼亡した。その後大風,兵火などで諸堂が破損したが,99年(慶長4)に至り郡山城主増田長盛の500石の寄進をもって金堂を再興し,屋根を瓦葺に改めるなど,再興への努力が繰り返された。1976年4月金堂が復興され,81年には西塔が450年ぶりで再建され,さらに法相宗の祖である唐の玄奘(げんじよう)三蔵の舎利を納めた三蔵堂が新建されるなど,寺観は創建時代に復した観がある。
奈良時代の当寺は,今に伝わる流記資財帳の断簡によると水田699町9段余,山野185町1段余,荘園33ヵ所,倉庫130棟におよび,用材の集積所として泉木津に木屋所が設けられ,749年(天平勝宝1)7月には1000町の墾田の地限が許された。寺の運営は当初は三綱により,のち別当職が設けられ,寺内には華厳宗,三論宗,法相宗,律宗のほか平安時代には真言宗が新たに加わり,9世紀には5宗兼学の大寺で,仲継,壱演,平智,長朗,義叡や11世紀には隆経のような偉才を輩出した。平安時代には最勝会のほか,恵達(854-881)によって始められた万灯会があり,宇多法皇も会料を施入したがともに中絶し,年中行事としては,現在3月30日から7日間金堂諸仏を造花で飾って行われる花会式(はなえしき)がある。1107年(嘉承2)堀河天皇が皇后の病気全快を薬師如来に祈願し,造花12瓶などを奉納したのに始まり,薬師悔過(けか)の作法により今に伝えられている。
執筆者:堀池 春峰
奈良時代の薬師寺の伽藍は,発掘調査により建物の配置・規模が明らかになりつつある。1972年以後,金堂,西塔,中門,僧房の復原再建が始まり,奈良時代の伽藍のありさまがうかがい知られるが,実際に当初の建物が残るのは,東塔のみである。東塔は三重の各重に裳階(もこし)のつく白鳳様式の代表的な建築である。藤原京にあった本薬師寺が平城京に移転するに際し,現在地で730年新造されたと考えられるが,本薬師寺より移建したとする説もある。金堂の薬師三尊像は,様式上,奈良時代初期の造立と考えられる銅像で,日本彫刻史上屈指の名品である。東塔同様,本薬師寺よりの移座・非移座両説がある。この三尊像の台座も同じ時期の作で,鬼人,四神その他の紋様は,中国,朝鮮との密接な係わりを示す。東院堂の聖観音立像は金堂薬師三尊と相前後するころの造立である。講堂の薬師三尊像は,金堂のそれとほぼ同規模の銅像で,様式・技法の上では両者は近い時期の作品ではあるが前後関係は決しがたく,作柄では講堂像が劣る。しかも江戸時代後期に西院弥勒堂から移されたと伝え,もと唐招提寺講堂にあったとする説もあり,伝来について不明な点が多い。梵鐘も奈良時代の作品で,1003年(長保5)に建法寺(殖槻寺)より移したものである。東西両塔には釈迦八相像のまつられていたことが《七大寺巡礼私記》等にみえるが,その木心・塑像断片がわずかに残っている。境内の仏足石は銘から天平勝宝5年(753),画師越田安万の下絵になることが知られ,仏足石歌碑は万葉仮名で記す奈良時代の歌碑で,当時の仏足石信仰の姿を伝える貴重な遺品である。ただし江戸初期には近在の小川の橋とされていたと伝え,原所在地が本寺であったかは,明確でない。
奈良末から平安時代にかけての遺品としては麻布吉祥天画像が代表的である。吉祥悔過の本尊とする説,南都三会の一つとして僧階昇進の関門となっていた最勝会の本尊の一部とする説,中国の神仙的絵画とする説がある。慈恩大師座像は慈恩会の本尊と考えられる。寛平年間(889-898)寺地南側に勧請された八幡神社の僧形八幡,神功皇后,仲津姫は一木丸彫(一部矧木あり),彩色を施し,9世紀末の木彫像の特徴を顕著に示す神像である。同社の一対の狛犬は平安後期の作で,角のない獅子形という異例の形式をとる。このほか3体の十一面観音立像,文殊菩薩座像,吉祥天立像,東塔四天王立像,四天王立像(内2体は残欠),東院八角円堂本尊のものとも考えられる擬古作の木造光背が平安時代各時期にわたる遺品である。
中世以降では,東院堂が棟札から1285年(弘安8)の建立と知られ,扉や頭貫(かしらぬき)木鼻等に中世の新様式が採用されている。南門(1512)は旧西院の門,若宮社社殿は鎌倉後期の作,八幡神社社殿(1603)は三間社流造(ながれづくり)本殿に脇殿が付属し,宮座の座小屋まで残る例の少ない建物である。伝大津皇子座像は14世紀前半の寄木造像,八幡神社脇殿柱間障子として用いられていた板絵神像は1295年(永仁3)絵師法眼尭儼の筆になり,それ以前の脇殿障子絵を模したような古様が認められる。この他〈医王曼荼羅〉〈二河白道図〉〈唯識曼荼羅〉など南都の教学や信仰にかかわる絵画遺品がある。いずれも一級の作とはいいがたく,中世薬師寺の寺勢を暗示している。また〈中下﨟検断引付〉〈黒草紙〉等の多くの文書・記録は,中世薬師寺と周辺寺領のありさまをうかがわせる。
→本薬師寺
執筆者:山岸 常人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良市西ノ京町にある法相(ほっそう)宗の大本山。西京寺、瑠璃(るり)宮薬師寺ともいう。南都七大寺の一つ。本尊は薬師三尊。680年(天武天皇9)天武(てんむ)天皇が皇后の病気平癒を祈願して一寺の建立を発願したが、天皇が崩御したため持統(じとう)天皇、文武(もんむ)天皇が698年(文武天皇2)藤原京に完成した。710年(和銅3)平城遷都を機に薬師寺は718年(養老2)平城京へ移された。これが現在の薬師寺で、旧地(現奈良県橿原(かしはら)市)は本(もと)薬師寺とよばれ、現在、金堂、東塔、西塔などの土壇や礎石を残す。平城京では、右京の南北に五条から六条大路、東西には一坊から二坊大路に至る寺地を占め、左京の元興(がんごう)寺に次ぐ大寺であった。新都の伽藍(がらん)や諸仏像が、旧地のものを移転したものか、新たに造営されたものかについて、明治以降学者の論争となっていたが、現在では新都で新造営されたとする説が有力である。造営次第は不明であるが、730年(天平2)の東塔建立ころまでには金堂も完成していたとみられ、寺域の発掘調査により、結構・規模とも本薬師寺と同じであったとされている。伽藍は、中門左右から回廊が延び、それに囲まれた結界中央に金堂、その前の左右に東塔・西塔が建ち、いわゆる薬師寺式伽藍配置をなす。
薬師寺は創建時から勅願寺、僧綱(そうごう)の寺として南都で重きをなしたが、法相唯識(ゆいしき)の学問寺として高僧の輩出が続き、818年(弘仁9)の不動堂建立後は密教も兼学した。また、830年(天長7。一説に829年)以来厳修(ごんしゅう)されていた最勝会(さいしょうえ)は、宮中御斎会(ごさいえ)、興福寺維摩会(ゆいまえ)とともに南京三大会と称されて盛行した。
973年(天延1)食堂(じきどう)より出火、金堂と東西両塔を残して伽藍の建物は焼失したが、40年を経て復興された。室町時代には地震、大風などの災害が相次ぎ、金堂、両塔、南大門、中門など諸堂が破損・倒壊し寺勢は衰微し、最勝会も廃された。さらに1528年(享禄1)戦火で食堂、講堂、中門、西塔、僧房を焼失、江戸時代に一部が再建・修造された。1976年(昭和51)に新金堂が、80年には西塔が再建され、創建当初の姿が復原された。
毎年春に行われる花会式(はなえしき)(3月30日~4月5日)は、1107年(嘉承2)堀河(ほりかわ)天皇が皇后の病気平癒を祈願して造花12瓶を献じたのに始まり、いまも10種12瓶の造花で内陣を飾り、薬師悔過(けか)の作法により勤行(ごんぎょう)が営まれる。また秋には万灯会(まんどうえ)、11月13日には慈恩会(じおんね)(宗祖の忌日)が厳修される。
[里道徳雄]
創建当初の唯一の遺構。国宝。三重塔だが、各層に裳階(もこし)をつけるため、六重の屋根が交互に出入りし律動感があって美しい形を示す。塔身と相輪の比率が絶妙で、水煙(すいえん)は飛雲をあしらい、天衣を長く翻して舞う飛天をかたどった4枚の金銅透彫(こんどうすかしぼ)りからなっている。
[永井信一]
1976年(昭和51)の再建。本尊薬師如来坐像(にょらいざぞう)、左右に日光菩薩(ぼさつ)・月光(がっこう)菩薩を従えた三尊形式(いずれも国宝)を安置。この鋳銅鍍金(ときん)の三尊像の制作年代については、本薬師寺からの移座説(7世紀)と、平城京で新たに造立されたとする非移座説(8世紀)があり、論争が続けられている。しかし、わが国を代表する仏像彫刻であることは両説ともかわらず、本尊の宣字形の台座の浮彫り(四神、鬼神、葡萄唐草(ぶどうからくさ)文様など)も注目される。
[永井信一]
鎌倉時代の1285年(弘安8)の再建。国宝。堂内須弥壇(しゅみだん)上の黒漆造の厨子(ずし)に等身を上回る鋳銅製の本尊観音(かんのん)菩薩立像(聖観音(しょうかんのん)、国宝)が安置されている。像の由緒・伝来は不詳であるが、金堂本尊薬師如来三尊像と同じころの制作と考えられている。
そのほか、絵画では数少ない天平(てんぴょう)絵画の遺品「吉祥天(きちじょうてん)像」と、平安時代(11世紀)の「慈恩大師像」が、彫刻では本寺鎮守の休岡八幡(やすみがおかはちまん)神社にあった僧形八幡神、神功(じんぐう)皇后、仲津姫命の三神像(一木造、平安初期)、そして奈良時代の画師黄文本実(えしきふみのほんじつ)が入唐(にっとう)の際模写してきたと伝えられる仏足石と仏足石歌碑が、いずれも国宝に指定されている。なお寺宝の多くは大宝蔵殿に収蔵され、毎年春・秋に日を限って特別公開される。1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。
[永井信一]
『高田好胤・山田法胤著『日本の寺院5 薬師寺』(1980・学生社)』▽『入江泰吉写真『古寺巡礼 奈良15 薬師寺』(1980・淡交社)』▽『田村圓澄・久野健著『全集日本の古寺13 薬師寺・唐招提寺』(1984・集英社)』
栃木県下野(しもつけ)市にあった寺院。669年(天智天皇8)に創建されたというが、諸説がある。754年(天平勝宝6)奈良薬師寺の僧行信(ぎょうしん)が当寺へ流され、また770年(宝亀1)道鏡(どうきょう)が別当(べっとう)として配流されたが773年に寺中で死去した。761年(天平宝字5)勅命により戒壇が設けられ、奈良時代、奈良の東大寺、筑紫(つくし)(福岡県)の観世音(かんぜおん)寺と並んで三戒壇の一つとなり、東国の僧の授戒を行った。その後は衰退したが、鎌倉時代に密厳(みつごん)によって再建されるもふたたび衰え、室町時代には足利尊氏(あしかがたかうじ)により同寺は下野(しもつけ)の安国寺となった。現在、本堂、六角堂の建つ安国寺境内は国指定史跡。1966年(昭和41)以来5次にわたる発掘調査が行われた。
[田村晃祐]
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奈良市西ノ京町にある法相(ほっそう)宗大本山。南都七大寺の一つ。680年(天武9)天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して発願。持統・文武両天皇による造営をへて,698年(文武2)藤原京(現,橿原市)にほぼ完成した。平城遷都にともない,718年(養老2)右京6条2坊の地に移された。これが現在の薬師寺で,もとの薬師寺を本薬師(もとやくし)寺とよぶ。722年僧綱所がおかれ,749年(天平勝宝元)に墾田1000町と布類が施入された。830年(天長7)に始まる当寺最勝会(さいしょうえ)は,興福寺維摩会(ゆいまえ)・宮中御斎会(ごさいえ)とともに南都三大会(なんとさんだいえ)(南京三会(なんきょうのさんえ))と称された。薬師寺式とよばれる伽藍配置だったが,973年(天延元)の火災で金堂と東西の塔・東院・西院を残して焼失した。再建されたが以後たびたび罹災し,1528年(享禄元)には兵火で金堂・西塔などを失った。現在は金堂・西塔などが復原されている。境内は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…日本では,754年(天平勝宝6)4月に東大寺大仏殿前に,唐僧鑑真一行によって,仮設の戒壇が造築され,聖武上皇・光明皇太后など400余人が登壇受戒したのが初例で,翌年10月に大仏殿の西方に常設の戒壇を中心とする院が設けられた。761年(天平宝字5)に下野国の薬師寺と筑前国の観世音寺に戒壇が創建され,〈天下の三戒壇〉といわれた。平安時代に至って,最澄は比叡山延暦寺に大乗戒壇の建立を企て,僧綱との間に論争が展開され,没後7日の822年(弘仁13)6月に勅許された。…
…法隆寺の銅造夢違観音像は,頭飾や瓔珞(ようらく)など初唐様を受容しながら,優美に整えられた微妙な像容の表現に,日本的情趣さえ感ずる。薬師寺の薬師三尊像は,旧山田寺仏頭や当麻寺弥勒仏の隋・唐様式よりも,より完成された初唐様式を有するため,造立年代については諸説ある。ここでは川原寺塑像の初唐様式の先進性や,法隆寺金堂壁画との類似などから,一応藤原京本尊説,すなわち688年(持統2)ころをとることにする。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…その存在はスリランカ,ミャンマー,タイなどの南方(小乗)仏教圏においても,またネパール,中国,朝鮮,日本などの大乗仏教圏においても,報告されている。日本では,奈良の薬師寺に現存する仏足石が最古のもので,その銘によると,753年(天平勝宝5)に造られたもので,その原型は唐の王玄策がインドの鹿野苑(ろくやおん)にあった仏足跡を写して長安に持ち帰ったものをさらに模写したものであるという。この銘とともに刻まれている歌は,〈仏足石歌〉として知られている。…
…680年(天武9)11月に皇后,後の持統天皇の病気平癒を祈って勅願によって営まれた官寺,薬師寺。現在,奈良県橿原市城殿町に金堂と塔の遺構が残っている。…
※「薬師寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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