薬師寺(読み)ヤクシジ

デジタル大辞泉 「薬師寺」の意味・読み・例文・類語

やくし‐じ【薬師寺】

奈良市にある法相ほっそうの大本山。南都七大寺の一。天武天皇が皇后の病気平癒を祈願し、天皇没後の文武天皇2年(698)藤原京に完成。平城遷都に伴い、現在の地に移転。たびたび火災などで諸堂を失ったが、昭和51年(1976)に金堂、昭和55年(1980)に西塔が再建された。東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、それぞれ国宝。また、薬師三尊像・聖観音菩薩立像・吉祥天画像・仏足石および仏足石歌碑(いずれも国宝)などを蔵する。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。
栃木県下野市にあった寺。天智天皇の時の創建と伝える。天平宝字5年(761)勅命によって戒壇を設け、日本三戒壇の一となった。のち、荒廃したあとに足利尊氏安国寺を建立。

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精選版 日本国語大辞典 「薬師寺」の意味・読み・例文・類語

やくし‐じ【薬師寺】

  1. [ 一 ] 栃木県河内郡南河内町にあった寺。天武天皇の創建と伝えられる。戒壇院が置かれ、坂東一〇か国の僧を得度し、東大寺・観世音寺と並んで日本三戒壇の一つといわれた。行信・道鏡が配流。のち荒廃し、弘長二年(一二六二)良賢が中興。暦応二年(一三三九)足利尊氏が安国寺と改称。明治一三年(一八八〇)以来、真言宗智山派の寺。下野薬師寺
  2. [ 二 ] 奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山。天武天皇九年(六八〇)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って造立起願され、文武天皇二年(六九八)にできた。初め飛鳥に建てられたが、のち藤原京に移され、平城京遷都に伴い養老二年(七一八)現在地に移転。もとのものを本薬師寺と呼ぶ。創建当時の伽藍は龍宮を模したといわれ、その配置を薬師寺式と呼ぶ。天祿四年(九七三)金堂・塔のほかは焼失し、間もなく再建されたが、度重なる災禍により東塔と東院堂のみが残る。東塔は三層裳階(もこし)付きで、本尊の薬師如来および両脇士像(薬師三尊)・観音菩薩立像、麻布著色吉祥天像、仏足石などとともに国宝。なお金堂は昭和五一年(一九七六)に、西塔は同五五年に当初の形にもとづいて再建された。

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日本歴史地名大系 「薬師寺」の解説

薬師寺
やくしじ

[現在地名]奈良市西ノ京町

秋篠あきしの川の西、おお池の東、平城京右京六条二坊の位置にあたる。法相宗。本尊薬師三尊。南都七大寺および「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一。当寺は平城遷都に従って藤原京から現在地に移ってきた。現奈良県橿原市城殿きどの町に本薬師もとやくし寺跡があって、金堂・東塔・西塔の跡の土壇や礎石を残す。当初の薬師寺創建については「日本書紀」天武天皇九年(六八〇)一一月一二日の条に天皇が皇后の病気平癒を祈願して建て始めたことがみえ、「薬師寺縁起」や東塔擦銘にも記されている。→本薬師寺跡

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔平城移転〕

本薬師寺の造営は文武天皇二年(六九八)に大体終わっていた。平城京へ移ったのは「薬師寺縁起」によると養老二年(七一八)とされるから、その間わずかの年月を経たのみである。翌三年三月二日初めて造薬師寺司に史生二人が置かれており、平城薬師寺の造営は進行していたと考えられる。同六年七月一〇日には薬師寺が僧綱の常の住居と定められているから、この頃工事は大体終わってきていることを示す。神亀三年(七二六)八月八日、太上(元正)天皇のために釈迦像ならびに法華経を写して薬師寺で斎を設けている(以上「続日本紀」)。「扶桑略記」には天平二年(七三〇)三月二九日に初めて薬師寺東塔を建つとあり、一応伽藍の造営が終りに近づいていたといえよう。東院は吉備内親王によってすでに建てられていたが、西院は天平に入ってから舎人親王によって建てられた。同一七年五月八日、度重なる地震のため、大安だいあん寺・薬師寺・元興がんごう寺・興福寺(現奈良市)の四寺で三七日の間、大集経を読誦せしめ(続日本紀)、各寺で祈願が行われた。移転後の大要は縁起によって知ることができるが、藤原京にあった本薬師寺から具体的に何をどのようにして移したかは諸説あって明らかでない。おそらく短年月のことであるから、いくらかの堂舎の移動はあったとしても、大略寺籍を移したものと考えられている。

〔伽藍配置〕

寺地は平城京右京六条二坊にあり、南は六条大路、西は西二坊大路、北は五条大路を限っていた。東は十二坊とするか、十坊四分の一とするか一定しないが、縁起は築地内を一二町としている。伽藍は南大門を入ると中門があって回廊がめぐらされ、中に東西両塔と金堂があり、金堂の背後に講堂があった。この金堂院の北に経楼・鐘楼が相対し、中央後方に食堂・僧房があった。さらに金堂院の南西に西院、南東に東院があった。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]京北町大字細野 下

しもの山麓に南面する。臨済宗南禅寺派。山号は岸池山、本尊は薬師如来。近世中期に旧薬師寺は廃絶し、その旧地に蔵春ぞうしゆん庵が建立されたが、近年再び薬師寺と改名した。

寺蔵の岸池山薬師寺縁起絵巻(元禄一二年作)によれば、貞治元年(一三六二)光厳上皇が山国やまぐに庄に巡錫の途中、草堂に薬師如来の像をみて岸池山薬師寺と名付けて中興。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]常北町石塚

街の南端に位置し、南側には水田が続く。天台宗、佐久山多聞院と号する。本尊は薬師如来。

寺伝によると大同二年(八〇七)坂上田村麻呂が奥州征討の際に創建したと伝える。願行流血脈(小松寺文書)によると、中興開山の宥は正慶二年(一三三三)鎌倉から那珂西郡佐久山さくやまへ下向、その地の薬師堂を真言宗の寺として再興した。佐久山については大中臣氏略系図(京都府福知山市桐村家蔵)に「禅心房 那珂佐久山地頭」とみえる。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]田島町田島

本町もとまちにある。真言宗豊山派、金光山と号し本尊阿弥陀如来。中世に南山みなみやまを領した長沼氏の祈願寺。長沼政則の三男で結城薬師寺(現栃木県南河内町)の住職であった鎮聖が、長沼氏の移転に従って安貞二年(一二二八)田島に薬師寺を建立したと伝える(会津四家合考)。初め古寺ふんでらと称する地に創建されたが、長沼秀政のとき現在地へ移ったともいう(正保二年「田島町差出帳」田島町史)。「新編会津風土記」に、延徳二年(一四九〇)「日海と云僧住してより相続て今に至る」とみえ、日海が中興したと考えられる。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]東根市東根 花岡

市街地北東にあり、医王山と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。寺伝によれば天平九年(七三七)行基の創建で、行基作の薬師三尊を安置し、護国山薬王国分寺と称し、仁寿元年(八五一)真済によって医王山薬師寺と改称したという。なか集落南東の薬師原は薬師寺があったところといわれ、かつて平安時代の花文宇瓦や平瓦片が出土した。当寺には正平一一年(一三五六)紀年銘の普光ふこう寺の梵鐘があり、県指定有形文化財。小田島長義が寄進したもので、大工は左衛門大夫景弘とある。鐘の第一区には陰刻で「羽州中央 小田嶋庄 東根境致 白津之郷 山号仏日 寺号普光」と記す。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]貴志川町国主

大国主おおくにぬし神社の北側丘陵地にある。竜王山国主院と号し、真言宗山階派。本尊は薬師如来。「紀伊国名所図会」によれば、聖徳太子の草創で、往昔は諸堂坊舎が立並んでいたという。安貞二年(一二二八)三月二四日の御使等田地寄進状(国立史料館蔵那賀郡古文書所収国主村薬師寺文書)に「千字谷田八十歩国重、件田者雖為高野新田内依国主之四至内(ママ)永薬師如来(ママ)見除日可難致後(ママ)不可有違乱輩依如件」とみえる。この薬師如来は当寺本尊と考えられ、また嘉元元年(一三〇三)六月の沙弥阿念置文(同文書)にみえる「貴志庄内国主寺」は当寺のことと思われる。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]黒石市温湯 鶴泉

温湯ぬるゆの西南にあり、瑠璃山と号し、黄檗宗。本尊釈迦如来。延宝七年(一六七九)藤崎ふじさき(現南津軽郡藤崎町)出身の宗運が開いたという。縁起によれば、宗運は上野国不動ふどう(現群馬県碓氷郡松井田町)の潮海の弟子となり、この地に湯治して薬師堂の傍らの庵を譲り受け、黄檗宗の庵にしたという。寛永元年(一六二四)花山院忠長が霊夢によって薬師如来を安置し、薬師堂を建てたとされる。黒石領二代領主津軽信敏がこの薬師如来を崇敬し、天和三年(一六八三)薬師堂と傍らの庵を宝厳山法眼ほうげん寺と号することとなった。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]伊賀町柘植町

柘植つげ倉部くらぶ集落の東部、風森かぜのもり社跡の東にある。山号白毫山、本尊薬師如来、曹洞宗。当寺蔵の享保一〇年(一七二五)の本尊薬師如来縁起によると、元暦元年(一一八四)近江国甲賀郡で佐々木秀義と戦った山田やまだ平田ひらた(現大山田村)の平田貞継が敗走の途次、護持仏の薬師如来像を倉部の西清水しようず山にあった梅田ばいでん寺に納めた。梅田寺は天正九年(一五八一)織田信長の伊賀攻略時兵火にかかり焼失したが、薬師如来像のみ残った。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]窪川町志和 土居谷

志和しわ港に臨むてら山の南麓、字土居谷どいのたににあり、臨済宗妙心寺派。瑠璃山と号し本尊薬師如来。建武二年(一三三五)四月二八日銘の棟札があったといわれ(古文叢)、銘文には「御本家領家次第沙汰人願主秦宗重室福島氏」と記されていた。中世には志和氏の菩提寺として七反四五代四歩の寺領があり(仁井田之郷地検帳)、脇坊に徳元庵・林香庵があった。江戸時代は禅宗吸江ぎゆうこう(現高知市)の末で観音を本尊としていた。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]松阪市船江町

利生山瑠璃光院と号し、天台宗。本尊薬師如来。聖武天皇勅願、行基開基の寺伝を有するが、正確なところは明らかでない。平安期以降の優れた仏像数体が保存されている。現在の本堂はその棟札によって、承応二年(一六五三)別当権大僧都良海が和歌山藩主徳川頼宣の援助によって再興したことがわかる。永禄一二年(一五六九)の大河内合戦の後、茶筌丸(織田信雄)が北畠の養子となるが、和議の成立により当寺へ居住した。「勢州軍記」に、「茶箋丸先居住於船江薬師寺、滝川左近将監一益宿於同浄泉寺、五十日計令逗留、万事仕置之、其外諸侍皆居住於船江也、国司父子到船江城、与茶箋丸有祝儀見参云々」と記されている。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]東大阪市若江北町三丁目

浄土宗、山号美女山、本尊薬師如来。寺伝によると、多田源氏多田満仲の四男で若江わかえに住した美女丸が祈願所として建立、山号は彼の名に由来するという。のち、織田信長に従っていた僧宿阿が若江に下向して、衰退していた当寺を再興、以後浄土宗となる。境内小堂に安置の石造薬師仏には「天文六年二月廿三日宿阿」の刻銘がある。大坂の陣の兵火で堂宇焼失するが、大坂藩主松平忠明が修営したという。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]福山市東深津町

深津ふかつ高地南端近くの丘上に位置し、王子山福正院と号し、真言宗大覚寺派。本尊は薬師如来であるが、「備陽六郡志」は「文禄の頃、此辺は渺々たる海なりけるが、海中に光物有、所をさだめず、西入といふ法師小船に乗て夜を覘けるに、この光もの次第に近より蛙岩まで来る、西入則舟を漕よせみれば薬師の尊像なり、急ぎ取揚置けるに霊験著し」と、海中出現を伝えている。

当寺は慶長年中(一五九六―一六一五)王子おうじ山に居城した毛利元康がこの尊像の奇特を感じ、一宇を建立したのに始まるという。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]犬山市犬山 薬師

犬山城の東南にある。青海山と号し、真言宗豊山派。本尊は国指定重要文化財の薬師如来。天平六年(七三四)行基が草創という。本尊薬師如来像は青海原せいがいはらより漁夫が網で拾い上げたものを、行脚中の行基がもらい受けて開眼供養したもの。これにちなみ青海山と号したといわれる。寺家は一三坊を数え七堂伽藍が建立され、灯明田は三町六反。慶長七年(一六〇二)小笠原吉次より「犬山薬師寺宝光院、屋敷拾三坊何も藪共、如前々令寄進処、為後日一札如斯候」という安堵状を与えられた(犬山里語記)


薬師寺
やくしじ

[現在地名]幡豆町東幡豆 紺屋谷戸

愛宕あたご山の南麓薬師の滝の西にある。四囲の木立は深い。道王山と号し、浄土宗西山深草派。本尊薬師如来。天平年間(七二九―七四九)行基の草創といい、本尊は行基作と伝える。当時は山を下った現在の東幡豆ひがしはず田中たなかにあり、道王山片仮名かたかな寺と称し、大寺であったという。


薬師寺
やくしじ

[現在地名]成田市船形

船形山と号し、真言宗豊山派。本尊は阿弥陀如来。船形ふなかた北須賀きたすかの二集落の祈祷寺で、鎌倉時代前期の創建と推定されている。梵鐘(東勝寺保管、県指定文化財)には応長元年(一三一一)一一月日付で「下州印東庄八代郷船方 薬師寺」と刻まれる。文明一八年(一四八六)九月当寺に聖護院道興が訪れたといい、「廻国雑記」にみえる「稲穂の別当が坊」は当寺にあたるとも伝えるが(成田名所図会)、不詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「薬師寺」の意味・わかりやすい解説

薬師寺 (やくしじ)

奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山。南都七大寺・十五大寺の一つ。680年(天武9)天武天皇が皇后の病全快を祈って建立を発願し,持統天皇を経て698年(文武2)藤原京に創建を終わったが,710年(和銅3)の平城遷都にともない,718年(養老2)に平城右京六条二坊に移建された。これが現在の薬師寺であり,旧地(現,奈良県橿原市)を本(もと)薬師寺という。移転後の伽藍地は東西3町,南北4町にわたり,金堂,東西両塔,講堂をはじめ,三面僧坊,経楼,食堂(じきどう)や大炊院,温室院,苑院があり,いわゆる薬師寺式伽藍配置の典型を示していた。南大門の南は花園苑が設けられ,9世紀後半にはこの地に八幡神を勧請し,寺の鎮守とした。722年(養老6)に僧綱所が設けられ,730年(天平2)に東塔が建立され,また大和国の授戒寺として重視された。748年(天平20)ころには薬師寺写経司が存在し,755年(天平勝宝7)ころには薬師寺勘経所が設けられた。808年(大同3)7月に薬師寺木工長上を減員したが,このころまで伽藍の増築が行われていたといえる。830年(天長7)に直世王や別当仲継の上奏で最勝会の設置が勅許され,以後南都三会の一つとなり,官僧の登竜門として重視され,当寺の根本的大会として室町時代ころまで伝えられた。973年(天延1)2月の火災で東塔をのこして炎上したが,大和,伊賀,美濃などを造国にあて,再興された。1096年(永長1)11月の地震で回廊が倒れ,1361年(正平16・康安1)6月の大地震で金堂,両塔が破損,中門,回廊,西院などが倒壊した。1445年(文安2)6月の大風では金堂,南大門が倒れ,72年(文明4)10月には土一揆で最勝会の勅使坊が焼け,1528年(享禄1)9月に食堂,講堂,中門,西塔が兵火で焼亡した。その後大風,兵火などで諸堂が破損したが,99年(慶長4)に至り郡山城主増田長盛の500石の寄進をもって金堂を再興し,屋根を瓦葺に改めるなど,再興への努力が繰り返された。1976年4月金堂が復興され,81年には西塔が450年ぶりで再建され,さらに法相宗の祖である唐の玄奘(げんじよう)三蔵の舎利を納めた三蔵堂が新建されるなど,寺観は創建時代に復した観がある。

 奈良時代の当寺は,今に伝わる流記資財帳の断簡によると水田699町9段余,山野185町1段余,荘園33ヵ所,倉庫130棟におよび,用材の集積所として泉木津に木屋所が設けられ,749年(天平勝宝1)7月には1000町の墾田の地限が許された。寺の運営は当初は三綱により,のち別当職が設けられ,寺内には華厳宗,三論宗,法相宗,律宗のほか平安時代には真言宗が新たに加わり,9世紀には5宗兼学の大寺で,仲継,壱演,平智,長朗,義叡や11世紀には隆経のような偉才を輩出した。平安時代には最勝会のほか,恵達(854-881)によって始められた万灯会があり,宇多法皇も会料を施入したがともに中絶し,年中行事としては,現在3月30日から7日間金堂諸仏を造花で飾って行われる花会式(はなえしき)がある。1107年(嘉承2)堀河天皇が皇后の病気全快を薬師如来に祈願し,造花12瓶などを奉納したのに始まり,薬師悔過(けか)の作法により今に伝えられている。
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奈良時代の薬師寺の伽藍は,発掘調査により建物の配置・規模が明らかになりつつある。1972年以後,金堂,西塔,中門,僧房の復原再建が始まり,奈良時代の伽藍のありさまがうかがい知られるが,実際に当初の建物が残るのは,東塔のみである。東塔は三重の各重に裳階(もこし)のつく白鳳様式の代表的な建築である。藤原京にあった本薬師寺が平城京に移転するに際し,現在地で730年新造されたと考えられるが,本薬師寺より移建したとする説もある。金堂の薬師三尊像は,様式上,奈良時代初期の造立と考えられる銅像で,日本彫刻史上屈指の名品である。東塔同様,本薬師寺よりの移座・非移座両説がある。この三尊像の台座も同じ時期の作で,鬼人,四神その他の紋様は,中国,朝鮮との密接な係わりを示す。東院堂の聖観音立像は金堂薬師三尊と相前後するころの造立である。講堂の薬師三尊像は,金堂のそれとほぼ同規模の銅像で,様式・技法の上では両者は近い時期の作品ではあるが前後関係は決しがたく,作柄では講堂像が劣る。しかも江戸時代後期に西院弥勒堂から移されたと伝え,もと唐招提寺講堂にあったとする説もあり,伝来について不明な点が多い。梵鐘も奈良時代の作品で,1003年(長保5)に建法寺(殖槻寺)より移したものである。東西両塔には釈迦八相像のまつられていたことが《七大寺巡礼私記》等にみえるが,その木心・塑像断片がわずかに残っている。境内の仏足石は銘から天平勝宝5年(753),画師越田安万の下絵になることが知られ,仏足石歌碑は万葉仮名で記す奈良時代の歌碑で,当時の仏足石信仰の姿を伝える貴重な遺品である。ただし江戸初期には近在の小川の橋とされていたと伝え,原所在地が本寺であったかは,明確でない。

 奈良末から平安時代にかけての遺品としては麻布吉祥天画像が代表的である。吉祥悔過の本尊とする説,南都三会の一つとして僧階昇進の関門となっていた最勝会の本尊の一部とする説,中国の神仙的絵画とする説がある。慈恩大師座像は慈恩会の本尊と考えられる。寛平年間(889-898)寺地南側に勧請された八幡神社の僧形八幡,神功皇后,仲津姫は一木丸彫(一部矧木あり),彩色を施し,9世紀末の木彫像の特徴を顕著に示す神像である。同社の一対の狛犬は平安後期の作で,角のない獅子形という異例の形式をとる。このほか3体の十一面観音立像,文殊菩薩座像,吉祥天立像,東塔四天王立像,四天王立像(内2体は残欠),東院八角円堂本尊のものとも考えられる擬古作の木造光背が平安時代各時期にわたる遺品である。

 中世以降では,東院堂が棟札から1285年(弘安8)の建立と知られ,扉や頭貫(かしらぬき)木鼻等に中世の新様式が採用されている。南門(1512)は旧西院の門,若宮社社殿は鎌倉後期の作,八幡神社社殿(1603)は三間社流造(ながれづくり)本殿に脇殿が付属し,宮座の座小屋まで残る例の少ない建物である。伝大津皇子座像は14世紀前半の寄木造像,八幡神社脇殿柱間障子として用いられていた板絵神像は1295年(永仁3)絵師法眼尭儼の筆になり,それ以前の脇殿障子絵を模したような古様が認められる。この他〈医王曼荼羅〉〈二河白道図〉〈唯識曼荼羅〉など南都の教学や信仰にかかわる絵画遺品がある。いずれも一級の作とはいいがたく,中世薬師寺の寺勢を暗示している。また〈中下﨟検断引付〉〈黒草紙〉等の多くの文書・記録は,中世薬師寺と周辺寺領のありさまをうかがわせる。
本薬師寺
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薬師寺 (やくしじ)

栃木県下野市にあった寺。創建年次は諸説あるが,天武天皇のときとする説が有力である。761年(天平宝字5)に戒壇院が設置され,東大寺戒壇院,筑前国観世音寺と並んで,三戒壇の一つとして坂東10ヵ国の僧侶の受戒に大きな役割を担った。754年(天平勝宝6)に大和国薬師寺僧行信が当寺に配流,770年(宝亀1)には道鏡が造薬師寺別当として左遷された。9世紀中ごろには七大寺に比すべき伽藍の形態をそなえ,大きな経済力を有していたが,以後徐々に衰退して廃寺となった。その後,足利尊氏が国分寺にならって諸国に建立した安国寺が当寺址に建てられ,現在に至っている。
下野薬師寺跡
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「薬師寺」の意味・わかりやすい解説

薬師寺(奈良市)
やくしじ

奈良市西ノ京町にある法相(ほっそう)宗の大本山。西京寺、瑠璃(るり)宮薬師寺ともいう。南都七大寺の一つ。本尊は薬師三尊。680年(天武天皇9)天武(てんむ)天皇が皇后の病気平癒を祈願して一寺の建立を発願したが、天皇が崩御したため持統(じとう)天皇、文武(もんむ)天皇が698年(文武天皇2)藤原京に完成した。710年(和銅3)平城遷都を機に薬師寺は718年(養老2)平城京へ移された。これが現在の薬師寺で、旧地(現奈良県橿原(かしはら)市)は本(もと)薬師寺とよばれ、現在、金堂、東塔、西塔などの土壇や礎石を残す。平城京では、右京の南北に五条から六条大路、東西には一坊から二坊大路に至る寺地を占め、左京の元興(がんごう)寺に次ぐ大寺であった。新都の伽藍(がらん)や諸仏像が、旧地のものを移転したものか、新たに造営されたものかについて、明治以降学者の論争となっていたが、現在では新都で新造営されたとする説が有力である。造営次第は不明であるが、730年(天平2)の東塔建立ころまでには金堂も完成していたとみられ、寺域の発掘調査により、結構・規模とも本薬師寺と同じであったとされている。伽藍は、中門左右から回廊が延び、それに囲まれた結界中央に金堂、その前の左右に東塔・西塔が建ち、いわゆる薬師寺式伽藍配置をなす。

 薬師寺は創建時から勅願寺、僧綱(そうごう)の寺として南都で重きをなしたが、法相唯識(ゆいしき)の学問寺として高僧の輩出が続き、818年(弘仁9)の不動堂建立後は密教も兼学した。また、830年(天長7。一説に829年)以来厳修(ごんしゅう)されていた最勝会(さいしょうえ)は、宮中御斎会(ごさいえ)、興福寺維摩会(ゆいまえ)とともに南京三大会と称されて盛行した。

 973年(天延1)食堂(じきどう)より出火、金堂と東西両塔を残して伽藍の建物は焼失したが、40年を経て復興された。室町時代には地震、大風などの災害が相次ぎ、金堂、両塔、南大門、中門など諸堂が破損・倒壊し寺勢は衰微し、最勝会も廃された。さらに1528年(享禄1)戦火で食堂、講堂、中門、西塔、僧房を焼失、江戸時代に一部が再建・修造された。1976年(昭和51)に新金堂が、80年には西塔が再建され、創建当初の姿が復原された。

 毎年春に行われる花会式(はなえしき)(3月30日~4月5日)は、1107年(嘉承2)堀河(ほりかわ)天皇が皇后の病気平癒を祈願して造花12瓶を献じたのに始まり、いまも10種12瓶の造花で内陣を飾り、薬師悔過(けか)の作法により勤行(ごんぎょう)が営まれる。また秋には万灯会(まんどうえ)、11月13日には慈恩会(じおんね)(宗祖の忌日)が厳修される。

[里道徳雄]

文化財

東塔

創建当初の唯一の遺構。国宝。三重塔だが、各層に裳階(もこし)をつけるため、六重の屋根が交互に出入りし律動感があって美しい形を示す。塔身と相輪の比率が絶妙で、水煙(すいえん)は飛雲をあしらい、天衣を長く翻して舞う飛天をかたどった4枚の金銅透彫(こんどうすかしぼ)りからなっている。

[永井信一]

金堂

1976年(昭和51)の再建。本尊薬師如来坐像(にょらいざぞう)、左右に日光菩薩(ぼさつ)・月光(がっこう)菩薩を従えた三尊形式(いずれも国宝)を安置。この鋳銅鍍金(ときん)の三尊像の制作年代については、本薬師寺からの移座説(7世紀)と、平城京で新たに造立されたとする非移座説(8世紀)があり、論争が続けられている。しかし、わが国を代表する仏像彫刻であることは両説ともかわらず、本尊の宣字形の台座の浮彫り(四神、鬼神、葡萄唐草(ぶどうからくさ)文様など)も注目される。

[永井信一]

東院堂

鎌倉時代の1285年(弘安8)の再建。国宝。堂内須弥壇(しゅみだん)上の黒漆造の厨子(ずし)に等身を上回る鋳銅製の本尊観音(かんのん)菩薩立像(聖観音(しょうかんのん)、国宝)が安置されている。像の由緒・伝来は不詳であるが、金堂本尊薬師如来三尊像と同じころの制作と考えられている。

 そのほか、絵画では数少ない天平(てんぴょう)絵画の遺品「吉祥天(きちじょうてん)像」と、平安時代(11世紀)の「慈恩大師像」が、彫刻では本寺鎮守の休岡八幡(やすみがおかはちまん)神社にあった僧形八幡神、神功(じんぐう)皇后、仲津姫命の三神像(一木造、平安初期)、そして奈良時代の画師黄文本実(えしきふみのほんじつ)が入唐(にっとう)の際模写してきたと伝えられる仏足石と仏足石歌碑が、いずれも国宝に指定されている。なお寺宝の多くは大宝蔵殿に収蔵され、毎年春・秋に日を限って特別公開される。1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。

[永井信一]

『高田好胤・山田法胤著『日本の寺院5 薬師寺』(1980・学生社)』『入江泰吉写真『古寺巡礼 奈良15 薬師寺』(1980・淡交社)』『田村圓澄・久野健著『全集日本の古寺13 薬師寺・唐招提寺』(1984・集英社)』


薬師寺(栃木県)
やくしじ

栃木県下野(しもつけ)市にあった寺院。669年(天智天皇8)に創建されたというが、諸説がある。754年(天平勝宝6)奈良薬師寺の僧行信(ぎょうしん)が当寺へ流され、また770年(宝亀1)道鏡(どうきょう)が別当(べっとう)として配流されたが773年に寺中で死去した。761年(天平宝字5)勅命により戒壇が設けられ、奈良時代、奈良の東大寺、筑紫(つくし)(福岡県)の観世音(かんぜおん)寺と並んで三戒壇の一つとなり、東国の僧の授戒を行った。その後は衰退したが、鎌倉時代に密厳(みつごん)によって再建されるもふたたび衰え、室町時代には足利尊氏(あしかがたかうじ)により同寺は下野(しもつけ)の安国寺となった。現在、本堂、六角堂の建つ安国寺境内は国指定史跡。1966年(昭和41)以来5次にわたる発掘調査が行われた。

[田村晃祐]

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百科事典マイペディア 「薬師寺」の意味・わかりやすい解説

薬師寺【やくしじ】

奈良市西ノ京にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。680年天武天皇の発願により高市郡岡本木殿に創建(本薬師寺),平城遷都に伴って718年現在の地に移り大伽藍(がらん)を形成したが,973年金堂,東塔,西塔を残して焼失。現在では東塔以外は江戸時代以降の建物である。東塔の水煙は飛天の浮彫の美しさで有名。金堂の薬師三尊像と東院堂聖観音像は奈良初期を代表する金銅像。ほかに僧形八幡像,神功皇后像,仲津姫像の3体の神像,吉祥天画像,仏足石仏足石歌碑がある。1998年,古都奈良の文化財として世界遺産(文化遺産)に登録。
→関連項目月光菩薩蟹満寺行基興福寺最勝会三重塔飾磨津四神高田好胤西ノ京日光菩薩日本霊異記白鳳時代白鳳文化仏国寺裳階薬師

薬師寺【やくしじ】

栃木県河内郡南河内町(現・下野市)にあった寺。国指定史跡。天武天皇の創建と伝え,東大寺,筑紫の観世音寺と並んで日本三戒壇の一つ。道鏡が流され別当となった。のち荒廃。足利尊氏が諸国に建てた安国寺(安国寺・利生塔)を当寺跡に置いた。
→関連項目戒壇古都奈良の文化財

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薬師寺」の意味・わかりやすい解説

薬師寺
やくしじ

奈良県奈良市西ノ京にある法相宗の大本山寺院。南都七大寺の一つ。天武天皇9(680)年,皇后(→持統天皇)の病気平癒を祈念して高市郡木殿(→橿原市)に創建された(本薬師寺)。平城京造営に伴い,養老2(718)年に現在地に移転。相次ぐ天災や戦乱などによって奈良時代初期の東塔(国宝)を除くすべての建物は失われたが,鎌倉時代に再建された東院堂,白鳳・天平時代(→白鳳文化天平文化)の仏像『薬師三尊像』『聖観世音菩薩像』,仏足石歌碑などの国宝を有する。高田好胤管長が主導した白鳳伽藍復興のための百万巻写経の勧進により,1976年に金堂が創建当初の様式で再建され,その後,西塔,中門回廊,大講堂食堂(じきどう)も再建をみた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「薬師寺」の解説

薬師寺
やくしじ

奈良市西ノ京町にある法相(ほっそう)宗大本山。南都七大寺の一つ。680年(天武9)天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して発願。持統・文武両天皇による造営をへて,698年(文武2)藤原京(現,橿原市)にほぼ完成した。平城遷都にともない,718年(養老2)右京6条2坊の地に移された。これが現在の薬師寺で,もとの薬師寺を本薬師(もとやくし)寺とよぶ。722年僧綱所がおかれ,749年(天平勝宝元)に墾田1000町と布類が施入された。830年(天長7)に始まる当寺最勝会(さいしょうえ)は,興福寺維摩会(ゆいまえ)・宮中御斎会(ごさいえ)とともに南都三大会(なんとさんだいえ)(南京三会(なんきょうのさんえ))と称された。薬師寺式とよばれる伽藍配置だったが,973年(天延元)の火災で金堂と東西の塔・東院・西院を残して焼失した。再建されたが以後たびたび罹災し,1528年(享禄元)には兵火で金堂・西塔などを失った。現在は金堂・西塔などが復原されている。境内は国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「薬師寺」の解説

薬師寺
やくしじ

①奈良市西ノ京にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ
②奈良時代,下野 (しもつけ) 国(栃木県)にあった寺で,東大寺,九州の観世音寺と並んで,三戒壇の一つ
白鳳時代,天武天皇の発願で飛鳥の木殿 (きどの) に創建。平城遷都により718年現在地に移建された。東塔・西塔のある薬師寺式伽藍 (がらん) 配置で,金堂の本尊『薬師三尊像』と東塔について,白鳳時代とする説と天平時代とする説とがある。その他本尊台座の文様,東院堂『聖観音像』(白鳳時代),『吉祥天画像』(天平時代),『仏足石』など多くの文化財を有する。
坂東10カ国の得度を行った。道鏡は失脚後,この寺に配流された。現在は土塁の一部が残るだけである。

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デジタル大辞泉プラス 「薬師寺」の解説

薬師寺

奈良県奈良市にある寺院。法相(ほっそう)宗大本山。天武天皇の発願により、698年藤原京に開創。平城遷都に伴い現在地に移転。創建時に建てられた東塔は国宝に指定。金堂の本尊の薬師三尊像(国宝)はじめ、数多くの文化財を保有。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。南都七大寺のひとつ。

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事典 日本の地域遺産 「薬師寺」の解説

薬師寺

(奈良県奈良市西ノ京町457)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「薬師寺」の解説

薬師寺

(奈良県奈良市)
南都七大寺」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の薬師寺の言及

【戒壇】より

…日本では,754年(天平勝宝6)4月に東大寺大仏殿前に,唐僧鑑真一行によって,仮設の戒壇が造築され,聖武上皇・光明皇太后など400余人が登壇受戒したのが初例で,翌年10月に大仏殿の西方に常設の戒壇を中心とする院が設けられた。761年(天平宝字5)に下野国の薬師寺と筑前国の観世音寺に戒壇が創建され,〈天下の三戒壇〉といわれた。平安時代に至って,最澄は比叡山延暦寺に大乗戒壇の建立を企て,僧綱との間に論争が展開され,没後7日の822年(弘仁13)6月に勅許された。…

【奈良時代美術】より

…法隆寺の銅造夢違観音像は,頭飾や瓔珞(ようらく)など初唐様を受容しながら,優美に整えられた微妙な像容の表現に,日本的情趣さえ感ずる。薬師寺の薬師三尊像は,旧山田寺仏頭や当麻寺弥勒仏の隋・唐様式よりも,より完成された初唐様式を有するため,造立年代については諸説ある。ここでは川原寺塑像の初唐様式の先進性や,法隆寺金堂壁画との類似などから,一応藤原京本尊説,すなわち688年(持統2)ころをとることにする。…

【南都七大寺】より

…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…

【仏足石】より

…その存在はスリランカ,ミャンマー,タイなどの南方(小乗)仏教圏においても,またネパール,中国,朝鮮,日本などの大乗仏教圏においても,報告されている。日本では,奈良の薬師寺に現存する仏足石が最古のもので,その銘によると,753年(天平勝宝5)に造られたもので,その原型は唐の王玄策がインドの鹿野苑(ろくやおん)にあった仏足跡を写して長安に持ち帰ったものをさらに模写したものであるという。この銘とともに刻まれている歌は,〈仏足石歌〉として知られている。…

【本薬師寺】より

…680年(天武9)11月に皇后,後の持統天皇の病気平癒を祈って勅願によって営まれた官寺,薬師寺。現在,奈良県橿原市城殿町に金堂と塔の遺構が残っている。…

※「薬師寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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