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…こうして発足した文展は,新人の登竜門として美術界に刺激を与え,あるいはひろく世人の目を美術に向けさせて鑑賞の趣味を育てるなど画期的な意義をもつことになるが,しかし他方,主導権をめぐる流派間の争いや排他的な権威主義を助長させるなど,弊害も少なくなかった。1919年(大正8)帝国美術院美術展覧会(帝展)への改組,35年(昭和10)の〈松田改組〉をめぐる紛糾と新文展の発足は,そうした弊害に深いかかわりがある。なお太平洋戦争後,文部省はその主催する展覧会を日本美術展覧会(日展)と改称し,46年から48年まで開催して官展は幕を下ろした。…
…1919年(大正8)から37年(昭和12)まで,文部大臣の管理下に設けられた機関。美術に関する諮問に答えること,建議すること,そして官設展(帝展)主催を役割とした。1907年に発足した文部省美術展覧会(文展)も,大正期に入ると在野団体の独立などで弱体化し,審査にまつわる弊害も指摘され,改革を求める声が高まった。…
…万は強烈な原色の大胆な使用によって,自然模倣の態度を捨て,《裸体美人》(1912),《日傘の裸婦》(1913)のような,自己・自我の主張をめざすフォービスムや,ものの形を基本的な幾何学的形に分解して再構成する《もたれて立つ人》(1917)のようなキュビスムを本格的に消化した日本で最初の作品を描いたが,春陽会にあっては文人画と油絵の融合をめざす表現主義風の試みに打ち込んだ。 外光主義のマンネリズムに陥っていた文展は,1919年に保守的な体質を改善しようと,帝国美術院主催美術展,すなわち帝展に改組されたが,洋画部は在野の二科会,春陽会のような人材を生み出さなかった(帝国美術院)。有力画家として,日本画では菊池契月,上村松園,鏑木清方,松岡映丘,平福百穂らが,洋画では児島虎次郎(1881‐1929),牧野虎雄(1890‐1946),中村彝(つね),前田寛治らが頭角を現した。…
※「帝展」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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