寺田寅彦(読み)テラダトラヒコ

デジタル大辞泉 「寺田寅彦」の意味・読み・例文・類語

てらだ‐とらひこ【寺田寅彦】

[1878~1935]物理学者随筆家。東京の生まれ。筆名、吉村冬彦藪柑子やぶこうじなど。地球物理学気象学などを研究。また、夏目漱石に師事し、「ホトトギス」に俳句・写生文を発表。のち、独自の科学随筆を多く書いた。随筆集「冬彦集」「藪柑子集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「寺田寅彦」の意味・読み・例文・類語

てらだ‐とらひこ【寺田寅彦】

  1. 物理学者・随筆家。東京出身。東京帝国大学卒。筆名は吉村冬彦・藪柑子・牛頓(にゅうとん)他。地球物理学・実験物理学を研究し、東大教授となる。五高在学中より夏目漱石に師事、多くの随筆・俳句を発表、近代文学史上の代表的な随筆家と目される。著作「冬彦集」「藪柑子集」「蒸発皿」など。明治一一~昭和一〇年(一八七八‐一九三五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺田寅彦」の意味・わかりやすい解説

寺田寅彦
てらだとらひこ
(1878―1935)

物理学者、随筆家。実験物理学、気象学、地球物理学に業績をあげ、また活発な文筆活動を展開し多数の随筆や俳諧(はいかい)作品を残した。東京で生まれ、高知で育ち、熊本の第五高等学校で田丸卓郎(たくろう)に物理を、また夏目漱石(そうせき)に英語、俳句を学んだ。東京帝国大学理科大学物理学科を1903年(明治36)に卒業、大学院で物理の実験研究に携わった。尺八の音響学的実験研究の論文で理学博士となる。1909年、東大助教授になり、外遊してドイツほかヨーロッパ各地とアメリカを訪ね、1911年帰国した。翌1912年末ごろからX線の結晶透過の実験に着手し、1913年(大正2)イギリスおよび日本の学術誌に報告文を発表して、結晶格子中の網平面によるX線反射の条件を論じた。これは、いわゆるブラッグ条件と密接に関係する業績であって、協力者であった西川正治(しょうじ)とともに1917年の学士院恩賜賞の対象となったが、ブラッグに後れたとしてまもなくこの方面の研究から遠ざかった。

 それ以後、東大航空研究所、理化学研究所、東大地震研究所に在籍、流体、コロイド、粉体、放電、破壊、燃焼、視覚などにかかわる実験や考察を多角的に展開し、また地震・火災の害や防災について論じた。一貫する関心事は、従来の決定論的な枠組みに入りきれない不安定現象、統計的現象、形態など新しい物理学の建設であったといえる。

 その特徴ある科学観を底流として、吉村冬彦、藪柑子(やぶこうじ)などの筆名で随筆をよくし、初期の『冬彦集』(1923)、『藪柑子集』(1923)のほか、多くの随筆書がある。死後『寺田寅彦全集』(文学編16巻・1936~1938、科学編6巻・1938~1939)が刊行された。

[高田誠二]

『安倍能成・小宮豊隆他編『寺田寅彦全集』全17巻(1960~1962/再刊・1985・岩波書店)』『小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集』全5冊(岩波文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「寺田寅彦」の意味・わかりやすい解説

寺田寅彦 (てらだとらひこ)
生没年:1878-1935(明治11-昭和10)

物理学者,随筆家。東京生れ。幼時を父の郷里の高知ですごす。五高在学中に田丸卓郎(1872-1932)によって自然科学への眼を開かれる。1903年東京帝国大学理科大学卒業。09年東大助教授となり,この年より11年までドイツへ留学。16年教授。理化学研究所,東大航空研究所,地震研究所などにおいて実験物理学,地球物理学の研究にしたがい,各分野に独創的な業績をのこした。X線による結晶構造解析(ラウエ斑点)の開拓的な研究は著名で,17年学士院恩賜賞受賞。27年A.ウェゲナーの大陸移動説をとり入れた日本海形成論を唱え,30年よりは割れ目の物理学を開始し,ガラス板の破壊実験を行うとともにその発想を生命にまで広げ《割れ目と生命》の論文を書いた。

 吉村冬彦の筆名で随筆もよくした。文学への開眼は五高在学中の夏目漱石との出会いにあった。教室で英語を習い,自宅で俳句を学び,その紹介で上京後正岡子規を訪ね,俳句や写生文を《ホトトギス》に寄せるにいたった。やがて高浜虚子らの文章会に出席,ドイツ留学に赴くまでに《団栗(どんぐり)》(1905)以下の小品を発表,自然と人事への哀愁を帯びた観照を端正な文章に刻んだ諸作は,《藪柑子(やぶこうじ)集》(1923)に収められている。著書は他に《冬彦集》(1923),《万華鏡カレイドスコープ)》(1929),《蒸発皿》(1933),《橡(とち)の実》(1936)など多数。初期の作品にはホトトギス派の写実的な文章が多い。後年は文学論,映画論,さらに科学の方法論や科学教育など,文化の広い領域に及んでいる。日本の風土の特殊性から災害現象にも強い関心をもち,数多くの警世的な文章を書いたが,この方面の文章は《天災と国防》に収められている。その災害論は〈天災は忘れたころにくる〉という彼のことば(書かれた文章中にはこの句はないが)に集約されており,今日なお示唆に富む。その真意は,過去の災害の教訓をいかしきれない人間の対応を分析したものである。これら数多くの随筆は,いずれもこまやかな観察とゆたかな学識に裏づけられたもので,人々の感性と知性のはたらきを刺激するものがあり,現在まで多くの人々に愛読されている。門下に中谷宇吉郎,藤原咲平,平田森三,安倍能成らがおり,それぞれ寺田の多様な側面を引き継いだ。
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20世紀日本人名事典 「寺田寅彦」の解説

寺田 寅彦
テラダ トラヒコ

明治〜昭和期の物理学者,随筆家,俳人



生年
明治11(1878)年11月28日

没年
昭和10(1935)年12月31日

出生地
東京市麴町区平河町(現・東京都千代田区)

出身地
高知県高知市

別名
筆名=吉村 冬彦(ヨシムラ フユヒコ),藪柑子,牛頓,寅日子,木螺山人

学歴〔年〕
東京帝国大学大学院実験物理学専攻〔明治37年〕修了

学位〔年〕
理学博士〔明治41年〕

主な受賞名〔年〕
帝国学士院賞恩賜賞〔大正6年〕「X線回折の研究」

経歴
五高在学中、夏目漱石に英語と俳句を学び、田丸卓郎に数学と物理を学び、決定的な影響を受ける。東京帝大に入学した明治32年「ホトトギス」に小品文「星」を発表。在学中、漱石をしばしば訪ねる。俳句は新聞「日本」や正岡子規編「春夏秋冬」にも入集。また、松根東洋城らと連句の研究にも力を入れた。俳誌「渋柿」に連載。一方、37年東京帝大理科大学講師となり、42年助教授、同年ドイツに留学。大正5年教授に就任。11年から航空研究所、13年から理化学研究所、15年地震研究所の研究員を兼任。音響学、地球物理学などの実験的研究に従事。大正9年吉村冬彦の筆名で「小さな出来事」を発表し、随筆作家として認められる。「藪柑子集」「冬彦集」「柿の種」「蛍光板」などの著書があり、文芸形式としての随筆を開拓した。「寺田寅彦全集」(全18巻 岩波書店)がある。

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百科事典マイペディア 「寺田寅彦」の意味・わかりやすい解説

寺田寅彦【てらだとらひこ】

物理学者,随筆家。筆名吉村冬彦。東京生れ。五高で夏目漱石に学び,東大物理学科を出て1909年東大助教授となり,2年間ドイツに留学。1916年東大教授,理化学研究所・航空研究所・地震研究所各所員などを兼任。物理・地球物理・気象・地震・海洋物理・応用物理学など多方面を研究。X線回折ラウエ斑点の研究方法の改良により1917年学士院賞。《冬彦集》《藪柑子集》など科学と文学を巧みに調和させた随筆を多く書いた。全集がある。
→関連項目随筆西川正治ホトトギス

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寺田寅彦」の解説

寺田寅彦
てらだとらひこ

1878.11.28~1935.12.31

明治~昭和前期の物理学者・随筆家。筆名は吉村冬彦・藪柑子(やぶこうじ)など。東京都出身。東大卒。実験物理の研究を進め,「尺八の音響学的研究」で理学博士。ドイツ留学中は地球物理学を専攻。1913年(大正2)結晶によるX線回折の実験で世界的に知られる。物理学の方法論や認識論にも興味をもった。東京帝国大学教授。27年(昭和2)地震研究所専任。気象学・地震学の研究を進めながら,日本的なテーマも研究した。「西洋の学者の眼ばかり通して自然を見ているのでは,日本の物理はいつまでも発達しない」といい,ガラスの割れ目,墨流し,金米糖の生成など物理学における偶然・統計的現象を研究した。科学随筆家としても知られる。学士院恩賜賞受賞。「寺田寅彦全集」全24巻。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺田寅彦」の意味・わかりやすい解説

寺田寅彦
てらだとらひこ

[生]1878.11.28. 東京
[没]1935.12.31. 東京
物理学者,随筆家。筆名,吉村冬彦,藪柑子ほか多数。第五高等学校を経て 1903年東京大学物理学科卒業。五高在学中から夏目漱石を知り,終生その門下であった。実験物理学を専攻し 16年東大教授。同大学の地震研究所,理化学研究所などに関係したが,病気療養中の 20年頃から本格的に写生文を書きはじめ,20年の『病室の花』以後,『冬彦集』 (1923) ,『藪柑子集』 (23) ,『万華鏡 (カレイドスコープ) 』 (29) ほか多くの著書を刊行。的確な写生表現力,人間関係への強い関心,自然科学の知識を根底におく精細な観察力などにより,理知と抒情を高次元で統一した独自な作風を示した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺田寅彦」の解説

寺田寅彦 てらだ-とらひこ

1878-1935 明治-昭和時代前期の物理学者,随筆家。
明治11年11月28日生まれ。ドイツに留学。大正5年東京帝大教授。理化学研究所などの所員をかね,実験物理学,応用物理学,地球物理学など幅ひろい研究を展開した。6年学士院恩賜賞。また夏目漱石(そうせき)に師事し,「藪柑子集(やぶこうじしゅう)」などの随筆をのこす。昭和10年12月31日死去。58歳。東京出身。東京帝大卒。筆名は吉村冬彦。俳号は藪柑子,寅日子など。
【格言など】天災は忘れた頃にやってくる

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旺文社日本史事典 三訂版 「寺田寅彦」の解説

寺田寅彦
てらだとらひこ

1878〜1935
明治〜昭和初期の物理学者・随筆家
東京の生まれ。東大理学部卒。1916年東大教授となり,'17年X線による結晶構造の研究で世界的名声を博し,恩賜賞をうけた。また夏目漱石に師事し,多くの写生文・科学随筆を発表した。著書に『地球物理学』『藪柑子 (やぶこうじ) 集』など。

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367日誕生日大事典 「寺田寅彦」の解説

寺田 寅彦 (てらだ とらひこ)

生年月日:1878年11月28日
明治時代-昭和時代の物理学者;随筆家。東京帝国大学教授
1935年没

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世界大百科事典(旧版)内の寺田寅彦の言及

【大陸移動説】より

… 大陸移動説はイギリスのホームズArthur Holmes,南アのデュ・トアAlexanderhogie du Toit,オーストラリアのケアリーS.Warreu Careyらによって支持された。日本の寺田寅彦もウェゲナーの大陸移動説に共鳴し,本州日本海岸沿いに小さい島が特に多いことが日本海が開いた証拠であろうと考えた(1927年発表)。そして1928年には山形県の飛島(とびしま)と本州との距離を一定期間ごとに測定することでこの学説を実証することを測地学委員会に提案し,自身で現地調査を行った。…

※「寺田寅彦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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