1919年(大正8)から37年(昭和12)まで,文部大臣の管理下に設けられた機関。美術に関する諮問に答えること,建議すること,そして官設展(帝展)主催を役割とした。1907年に発足した文部省美術展覧会(文展)も,大正期に入ると在野団体の独立などで弱体化し,審査にまつわる弊害も指摘され,改革を求める声が高まった。そこで19年9月5日,勅令をもって発布されたのが帝国美術院規程である。院長1人,会員15人で組織することが定められ,初代院長に森鷗外が任命された。会員には黒田清輝,高村光雲,竹内栖鳳らが任命されたが,横山大観と下村観山は辞退した。その後たびたび増員され,35年のいわゆる松田改組のときには50人に達していた。また帝展も日本画,洋画,彫刻の3部制で出発したが,27年に美術工芸部を加えた。35年の松田源治文相による改組は美術界に空前の混乱をもたらし,37年に帝国芸術院官制の制定をみることになる。
→官展
執筆者:原田 実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大正・昭和初期の美術の諮問機関。1919年(大正8)帝国美術院規程によって設置された。文部大臣の管轄のもと,美術に関する諮問・建議を行い,官設の美術展覧会である帝国美術院展覧会(帝展)を主催した。院長1人,会員15人で組織され,はじめ日本画・洋画・彫刻の3部だったが,27年(昭和2)美術工芸部門が加えられた。会員数も30年段階で30人まで増加。37年の改組によって帝国芸術院となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…こうして発足した文展は,新人の登竜門として美術界に刺激を与え,あるいはひろく世人の目を美術に向けさせて鑑賞の趣味を育てるなど画期的な意義をもつことになるが,しかし他方,主導権をめぐる流派間の争いや排他的な権威主義を助長させるなど,弊害も少なくなかった。1919年(大正8)帝国美術院美術展覧会(帝展)への改組,35年(昭和10)の〈松田改組〉をめぐる紛糾と新文展の発足は,そうした弊害に深いかかわりがある。なお太平洋戦争後,文部省はその主催する展覧会を日本美術展覧会(日展)と改称し,46年から48年まで開催して官展は幕を下ろした。…
※「帝国美術院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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