政府が主宰する美術展覧会とその機構。1907年(明治40)の文部省美術展覧会(通称文展)開設をそのはじまりとする。これは,日本美術,洋風美術それぞれの新旧諸流派が対立し反目し合う美術界に共通の場を与え,抗争を収拾して美術の振興を図ることを目的として設けられたもので,その年の6月,勅令をもって官制が発布され,10月から11月にかけて上野公園で第1回展が開催された。東京帝国大学教授大塚保治の建議,正木直彦や黒田清輝らの運動が開設をうながしたという。時の首相は西園寺公望,文相は牧野伸顕であった。こうして発足した文展は,新人の登竜門として美術界に刺激を与え,あるいはひろく世人の目を美術に向けさせて鑑賞の趣味を育てるなど画期的な意義をもつことになるが,しかし他方,主導権をめぐる流派間の争いや排他的な権威主義を助長させるなど,弊害も少なくなかった。1919年(大正8)帝国美術院美術展覧会(帝展)への改組,35年(昭和10)の〈松田改組〉をめぐる紛糾と新文展の発足は,そうした弊害に深いかかわりがある。なお太平洋戦争後,文部省はその主催する展覧会を日本美術展覧会(日展)と改称し,46年から48年まで開催して官展は幕を下ろした。
1907年に開設された文展は,日本画,洋画,彫刻の3部で構成され,第1回展の審査委員に橋本雅邦,横山大観,下村観山,竹内栖鳳,川合玉堂,黒田清輝,岡田三郎助,和田英作,浅井忠,小山正太郎,中村不折,高村光雲,長沼守敬,新海竹太郎など各派の有力作家のほか,大塚保治,岡倉天心,藤岡作太郎,森鷗外,岩村透ら学者が任命された。そして菱田春草《賢首菩薩》,和田三造《南風》の2等賞受賞(1等賞なし)などは,発足した文展の明るい面を示すものであった。しかしまた,人事をめぐる確執も最初から起こっている。旧派日本美術協会系の画家たちは予定された審査委員の顔ぶれが新派日本美術院系にかたよっているとして不満を表明し,第1回展に不出品を決めた。翌年には立場が逆になり,日本美術院系の画家は参加しなかった。それ以来,入選や受賞に関係する審査委員を自派から出すか否かが,文展の作家たちの最大の関心事になるのである。また黒田清輝がもたらした折衷的な外光表現がアカデミズムの権威をまとい力を持つにいたるのも,その勢力が文展の中枢を占めた結果であった。やがてそれは,個性的な表現を目ざす若い画家たちの前に壁のように立ちはだかることになる。1912年,夏目漱石が文展の没個性的な傾向や実質のない権威主義を批判して書いた《文展と芸術》はよく知られている。そして14年,二科会と再興日本美術院が在野の団体として旗あげするのは,文展の閉鎖性に理由がある。また18年の国画創作協会の結成も文展批判のあらわれであった。
1919年9月,帝国美術院規定が発布され,文展は第11回展をもって解消し,官展は帝国美術院が主催することになった。すなわち帝展である。初代院長に森鷗外が就任し,黒田清輝,中村不折,高村光雲,竹内栖鳳らが会員に挙げられた。会員は鑑審査にたずさわらず,文部大臣と美術院が推薦し内閣が任命する中堅作家によって審査が行われることになった。若返りを図ったのである。また中橋文相はこの改革にあたり,在野団体の包摂を企図した。しかしこれは横山大観,下村観山が会員就任を辞退したために果たせず,内部の人事刷新に終わった。こうして持ち越された閉鎖的な体質はやがて無気力を生み,松田改組の下地をつくるのである。帝展は19年から34年まで,23年の関東大震災による休止を除いて15回開催された。また27年から美術工芸の部が設けられている。
1935年5月,松田源治文相は帝国美術院の改組を発表,帝国美術院官制を制定した。これは帝国美術院を〈挙国一致の指導機関〉にして美術界をその統制下におくことを目的とし,新たに在野の有力作家を会員に加え,また従来の無鑑査出品を廃止し,新規定による更新などを内容としたものであった。この突然の改組は美術界に空前の混乱をもたらした。既得権を解消する新たな無鑑査規定,日本美術院や二科会から会員を補うといったことが帝展系作家の反撃を招いたのは当然として,新会員を出した側にも動揺や深刻な対立を生じさせた。翌年,急死した松田文相に代わった平生釟三郎文相は事態を収拾するため,展覧会を帝国美術院主催の招待展と文部省主催の鑑査展とに分け,旧帝展無鑑査の全員を招待展に招くという再改組案を示した。これは前年の改組に反対する者を満足させたが,改組支持者を怒らせ,混乱をさらにひろげる結果になった。この混乱は37年,安井英二文相の妥協案によってようやく沈静する。すなわち美術以外の分野を含めた帝国芸術院を設立し,旧美術院会員をすべて芸術院会員にする一方,展覧会を芸術院から切り離して文部省の主催とするというものである。こうして新文展が発足し,これは43年まで開催されることになる。松田改組とそれにつづく混乱の中から一水会や新制作派協会が生まれ,そして院展の主力画家が官展に加わることになった。しかしすでに戦争の時代にさしかかっており,新文展はめぼしい収穫がほとんどないままに終わっている。松田改組をめぐる紛糾は,表現そのものをさしおき本来芸術にかかわりのない世俗的な権威や序列を尊ぶ明治以来の美術界の体質を,はしなくも露呈したものであった。
1946年3月,文部省は第1回日本美術展覧会(日展)を開催して官展を復活させた。47年に帝国芸術院は日本芸術院に改まり,翌48年の第4回日展は芸術院が主催し,従来の4部に書を加えて5科制とした。しかし純然たる官営の展覧会はこの回で終わり,49年から日本芸術院と日展運営会の共同主催となり,58年からは社団法人日展の運営となっている。
→サロン
執筆者:原田 実
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政府の主催する美術の公募展覧会のことで、在野の美術団体の公募展に対して用いた通称。明治中ごろ美術運動が盛んになると、多くの美術団体が結成されたが、政府は美術の振興を図る目的で、文部省に美術審査委員会を設け、1907年(明治40)以来、毎年文部省美術展覧会(文展)を開催した。しかし審査員の選出、官僚的な運営など弊害が絶えず、19年(大正8)帝国美術院規定を発布、帝国美術院は文部大臣の管理に属し、その事業の一つとして美術展覧会を開いた。これを「帝展」とよんだ。しかしこれも日本画の横山大観、下村(しもむら)観山が会員を辞退するなど、在野の美術家で名を連ねるものも少なく、しばらくたつとまた円滑な運営を欠くに至った。そこで35年(昭和10)、時の松田文相は帝国美術院の改組を打ち出したが、いっそうの混乱を招き、37年同院を解消、新たに帝国芸術院を設置、美術展は文部省の主催にして、いわゆる「新文展」を開催した。46年(昭和21)文展は日本美術展覧会(日展)と改称、のち官展色を取り除く意味もあって、59年3月社団法人日展という民間の美術団体が設立され、毎年秋に展覧会を開き、日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の各部門を擁し、現在最大の組織を有する美術団体となった。
[永井信一]
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…【安斎 和雄】
[サロン展]
美術史の用語として,サロンはフランスの公の機関によって行われる定期的な展覧会をさす。しばしば〈官展〉と訳される。出品対象は絵画,彫刻,建築,素描,版画など。…
…日本美術展覧会の略称で,文展を継いで1946年に発足,58年から社団法人日展が運営している。1907年に文展(文部省展覧会)として出発した官展は,19年に帝展,37年に新文展に改まり,45年の敗戦を迎えたが,46年春,文部省主催による日本美術展覧会すなわち日展として再出発した。構成は従来どおり日本画,洋画,彫塑,美術工芸の4部であった。…
※「官展」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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