席田庄(読み)むしろだのしよう

日本歴史地名大系 「席田庄」の解説

席田庄
むしろだのしよう

現博多区中央部、御笠みかさ川右岸の雀居ささい下月隈しもつきぐま上臼井かみうすい青木あおき那珂なか板付いたづけ堅粕かたかす付近一帯に比定される庄園。筵田とも表記する。貞和二年(一三四六)六月一五日の菅原在登御教書写(御供屋古文書/南北朝遺文(九州編)二)に「席田庄」とみえ、安楽寺(太宰府天満宮)領である当庄のうち、一町の田地の耕作者と給主である同寺の一命婦との間で訴訟があり、耕作者が領家菅原在登の命令を無視したため、在登は耕作者の任命権は給主にあること、年貢米公人に徴収させることを裁決している。応安四年(一三七一)六月二七日の三鈷寺什物等目録(三鈷寺文書/南北朝遺文(中国・四国編)四)によれば、当庄に関する文書一結が三鈷さんご(現京都市西京区)に所蔵されており、同寺に何らかの権利があったと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報