田楽(読み)デンガク

デジタル大辞泉 「田楽」の意味・読み・例文・類語

でん‐がく【田楽】

初め民間の農耕芸能から出て、平安時代に遊芸化された芸能。田植えのときに、田の神を祭って歌い舞ったのが原形で、鎌倉時代から室町時代に流行、専業の田楽法師も出た。能楽のもとである猿楽さるがくとの関係が深い。鼓・腰鼓・笛・銅鈸子どびょうしささらなどを奏しながら舞う田楽踊りと、高足などの散楽系の曲芸のほか、物真似芸やなども演じた。現在では民俗芸能として各地に残る。
民俗芸能で、田遊び田植え踊りなど田に関する芸能の総称。
田楽法師」の略。
田楽豆腐」「田楽焼き」の略。「木の芽田楽 春》枸杞くこの垣―焼くは此奥か/漱石
田楽返し2」の略。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「田楽」の意味・読み・例文・類語

でん‐がく【田楽】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 平安時代から行なわれた芸能。もと、田植えの時に田の神をまつるため笛・太鼓を鳴らして田の畔で歌い舞った田舞(たまい)に始まるという。やがて専門の田楽法師が生まれ、腰鼓・笛・銅鈸子(どびょうし)・編木(びんざさら)などの楽器を用いた群舞と、高足(たかあし)に乗り、品玉を使い、刀剣を投げ渡しなどする曲芸とを本芸とした。鎌倉時代から室町時代にかけて田楽能を生んで盛んに流行し、本座・新座などの座を形成し、猿楽(さるがく)と影響しあった。のちに衰え、現在は種々のものが民俗芸能として各地に残っている。
    1. 田楽<b>①</b>〈年中行事絵巻〉
      田楽〈年中行事絵巻〉
    2. [初出の実例]「日根参箇郡、依巡々者、十烈預、細男預田楽并参種預差定御供預、大楽両色預、差定大鳥郡」(出典:大鳥大明神文書‐延喜二二年(922)四月五日・和泉国大鳥神社流記帳)
    3. 「又でんがくといひて、〈略〉ささらといふ物突き、さまざまの舞して」(出典:栄花物語(1028‐92頃)御裳着)
  3. に用いる鼓。
    1. [初出の実例]「此の白装束の男共の馬に乗たる、或はひた黒なる田楽を腹に結付て」(出典:今昔物語集(1120頃か)二八)
  4. でんがくほうし(田楽法師)」の略。
    1. [初出の実例]「その坊は一二町ばかりよりひしめきて、田楽・猿楽などひしめき」(出典:宇治拾遺物語(1221頃)五)
  5. でんがくおどり(田楽踊)」の略。
    1. [初出の実例]「田楽に味噌をつけぬは金輪寺」(出典:雑俳・柳多留‐七一(1819))
  6. でんがくやき(田楽焼)」または「でんがくどうふ(田楽豆腐)」の略。《 季語・春 》
    1. [初出の実例]「でんがく三荷持参」(出典:後奈良院宸記‐天文四年(1535)一二月一七日)
  7. でんがくがえし(田楽返)」の略。
    1. [初出の実例]「桝花女の姿、上の石碑の田楽(デンガク)にて消える」(出典:歌舞伎・四天王櫓礎(1810)大切)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「田楽」の意味・わかりやすい解説

田楽 (でんがく)

広義には稲作に関する芸能の総称として用いるが,狭義には田楽躍(おどり)を本芸とする職業芸能者が演じる芸能をいう。また田植の囃しや田楽躍に用いる太鼓を称する場合もある。広義の田楽は,(1)田植を囃す楽,(2)職業芸能者である田楽法師による芸能,(3)風流(ふりゆう)田楽の三つに分けて考えるのが便利であるが,日本の民俗芸能分類の用語としての田楽には,予祝の田遊(たあそび)やその派生芸能を含めることが多い。

稲作の諸工程のうち,田植に囃しや歌を奏するのは日本固有の儀礼ではなく,広く照葉樹林文化圏の特色であったらしい。《類聚国史》貞観8年(866)閏3月1日条の清和天皇行幸の記事に〈覧耕田,農夫田婦雑楽皆作〉とあるのや,《栄華物語》御裳着(みもぎ)巻に1023年(治安3)5月のこととして見える情景がそれである。藤原道長が土御門殿で大宮藤原彰子のために催したこのおりの田植では,〈でむがく〉と呼ぶ腰太鼓,鼓,笛,すりささらなどで囃し,田植歌がうたわれている。また田主(たあるじ)と称する翁(おきな)が,破れ大傘をさし,斑(まだら)化粧をした女とかまけ技(わざ)を見せている。都近くではすでにこのころには田植行事が観賞の対象とされ,芸能化しているが,もともとは信仰を背景とした民俗行事であったはずである。《長秋記》大治4年(1129)5月10日条に記される田植では,田主を専門の猿楽芸能者である弘延(こうえん)がつとめたのをはじめ,苗を植える早乙女が20人,それに懸鼓,佐々良(ささら),笛などの囃し方を田楽者と呼んで,その華やかなようすを記しているが,別に職業芸能者の田楽法師の一団も参加しており,貴族御覧の田植が一段と芸能化していたことが知られる。このようなにぎやかな田植行事は,その後神社の神田などを植える神事として各地に伝承されるが,その代表的なものが大阪市住吉大社の御田植神事(現在6月14日)で,近世まで専業の猿楽者・田楽者が参勤して,田の畦(あぜ)を舞台に芸能を演じていた。一方,一般の田植でも民俗信仰行事として田植を囃すことは各地に伝えられた。とくに中国地方の山間部や,四国の一部では近年まで盛んに行われ,囃子田(はやしだ),田植囃子,花田植などの名で知られる。現在も広島県西部や島根県の山間部では民俗芸能として伝承されている。

社寺の祭礼などに,田楽躍を中心に奉納芸能を演じた芸能者集団は,法師形をしていたことから,田楽法師の名で呼ばれた。びんざさら(編木)・腰太鼓を打ちつつ躍る者各4,5人を中心に,花笠で飾った笛役,鼓,銅鈸子(どびようし)などの奏者を加えた十数名が一座を成す。ささら,太鼓,鼓,笛などの構成楽器が田植を囃す楽と一見同じに見えるところから,(2)を(1)の芸能化したものという見解がなされたが,実態は別種の芸能で,びんざさらが数十枚の木片を並べて上部をひもで固定し,両手で打ち合わせて独自の音を出すのに対し,ささらは鋸歯状の刻み目を入れた棒(ささらこ)を,竹の先をはけ状に割ったささら竹でこすって音を出す。太鼓も締太鼓であることは共通するが,田植の太鼓は胴が厚く,田楽躍のものは胴が薄い独自の形態をもつ。芸態も別種で,田楽躍が躍り手が楽器を奏しつつ互いに位置を替え,軽快に動く変化の面白さを主眼とした大陸系のシンメトリックな動きを特色とするのに対し,田植を囃す楽は歌謡をともない,一種の伴奏楽で動きも少ない。両者の発生は別系統と思われる。なお田楽躍には高足(たかあし),刀玉(かたなだま),弄丸(ろうがん)など習練を必要とする大陸伝来の散楽(さんがく)系曲技が加わるのも特色である。この専業者による田楽が文献に見える最初は,文書に疑問はあるが922年(延喜22)の〈和泉国大鳥大明神五社流記帳〉(《平安遺文》)で,十烈(とおつら)や細男(せいのお)とともに祭礼芸能として記されている。また《日本紀略》長保元年(999)4月10日条には,京都松尾社の祭礼に山崎の津人による田楽が恒例として演じられ,このとき大がかりな喧嘩のあったことが記されている。淀川河原の山崎津(やまさきのつ)は,芸能者などの集まる散所(さんじよ)の一つといわれ,この田楽は専業芸能者の所演であったと思われる。当時,祭礼奉仕の職業芸能者は座を結成して社寺への勤仕権を確保するのが通例であったが,田楽においても同様で,平安時代末期には複数の田楽座が結成されていた。本(ほん)座を称した京都白河(川)田楽,新(しん)座を称した奈良田楽や弥座などの名が史料に散見するが,ほかにも群小の座があったに違いない。京都の祇園御霊会(ごりようえ),宇治の離宮祭(宇治神社),奈良春日若宮御祭(おんまつり)をはじめ,延暦寺,園城寺,東大寺など大社寺の祭礼にはかならず田楽座が出勤している。田楽の座衆が法師形をなしていた初見は,前述の《長秋記》の田植御覧の記事で〈田楽法師等十余人〉とある。

 田楽躍の芸態は,まず演者の一人一人が担当楽器を持って中央に進み,独演してみせる《中門口(ちゆうもんぐち)》にはじまり,続いて全員の惣田楽に移る。惣田楽は動きの変化により多くの曲目があったらしく,弘長2年(1262)4月1日付の〈陸奥中尊毛越両寺座主下知状写〉(《鎌倉遺文》)には,《道行》《三曲》《三草》《三多衆利》《鳥飢》《獅子飢》《三足遍》《一足双》《具郎舞》《密越沢》《越身》《竹林堂》《大舞》《小舞》《順之輪》《清地》《六方四角舞》《浮深楽》《万物気神楽》《感応楽》《延命楽》の21曲の曲名を挙げている。また現在伝承されている田楽躍のうち,最も古形が残ると思われる和歌山県那智勝浦町那智大社那智田楽躍では,《乱声》《鋸歯》《八拍子》《遶道》《二拍子》《三拍子》《本座駒引》《新座駒引》《拍板の舞》《太鼓起こす》《撥下(ばちさげ)》《肩組む》《タラリ行道》《入り組む》《本座水車》《新座水車》《本座鹿子躍》《面の現像》《新座鹿子躍》《大足》《打居皆集会》《シテテンの舞》を伝える。とくに最後の《シテテンの舞》は鼓役の童児2人による演技で,鼓役に子どもを当て,それを四天子(してんじ),シッテイなどと呼ぶ例は多い。田楽衆が大社寺の祭礼に出勤する場合,その費用を負担する頭(とう)役を差定(さじよう)する制度があり,奈良春日若宮の御祭などでは中世前期から盛大に行われていた。とくに祭礼前に必要な諸道具をさげ渡す行事を装束賜(しようぞくたばり)と称し,《大乗院寺社雑事記》などに詳しい記録が残る。

 田楽座の本芸とされた田楽躍や曲技の間にも,見物の笑いを誘う芸が演じられたようであるが,鎌倉時代中期以降,猿楽衆(猿楽)が能を演じて人気を得ると,田楽の座でも猿楽の能を演じた。これが田楽能と呼ばれて発展し,南北朝から室町期にかけて猿楽者と芸を競った。田楽能の名人として一忠(いつちゆう),喜阿弥(きあみ),増阿弥(ぞうあみ)などの名が知られるが,室町中期以降は大和猿楽の隆盛に押されて衰微した。田楽能の芸態的特色は不明な点が多い。

平安時代後期,貴族御覧の田植行事や職業的な田楽芸能者が世に迎えられると,都の貴賤がその姿をまねて練り歩くことが爆発的に流行した。当時の政情不安や,末法思想などの社会不安を背景に,1096年(永長1)を頂点として短期間流行した特殊な芸能現象である。そのようすは《中右記》や《古事談》《洛陽田楽記》に詳しく,永長の大田楽の名でも呼ばれる。芸能者は殿上人(てんじようびと)をはじめ下級の青侍などにいたるまで,高足・一足・腰鼓・振鼓・銅鈸子・編木・殖女・舂女(《洛陽田楽記》),懸鼓・小鼓・銅拍子・左々良(ささら)・笛・田主・一足・二足(《中右記》)などの姿が見える。これは田植を囃す一団と職業田楽者の姿を合わせたもので,職業田楽者も加わった田植御覧のおりの華やかさを,そのまま模倣して都大路を練り歩いたわけである。この現象はさして長くは続かず,やがて政情の安定とともに消えるが,後にも祇園御霊会などには,しろうとの田楽が参加することがあった。

職業田楽の座は近世末期まで春日若宮の御祭に出勤して残存したほか,地方の祭礼に伝承された所も多い。前述の那智大社や春日の御祭をはじめ,岩手県平泉町毛越寺,秋田県鹿角市小豆沢大日堂(大日堂舞楽),東京都浅草神社,長野県阿南町新野(にいの)伊豆神社(雪祭),愛知県新城市の旧鳳来(ほうらい)町鳳来寺鳳来寺田楽),同北設楽(きたしたら)郡設楽町高勝寺観音堂(田峯の田楽),京都府福知山市御勝(みかつ)八幡宮,同京丹後市の旧弥栄町八坂神社,島根県隠岐西ノ島町美田八幡社などにいずれも形態の整った田楽躍を残すほか,全国には60余ヵ所に田楽躍が残存する。なお,静岡県浜松市の旧水窪(みさくぼ)町西浦(にしうれ)の観音堂には田楽の名で総称される一種の修正会(しゆしようえ)が伝えられるが,この行事には田遊や田楽躍のほかに独特の芸態を残す能が〈はね能〉の名で伝承されている。
田遊
執筆者:


田楽 (でんがく)

豆腐を細長く切って竹串を打ち,みそを塗ってあぶった料理。田楽豆腐の略。田楽の名は串に刺した豆腐の形が長い棒に横木をつけた鷺足(さぎあし)に乗って踊る田楽法師の姿に似ているためだという。やがてこれに倣って,こんにゃくサトイモなども作られるようになり,さらには魚を材料とするものも現れ,これを魚(うお)田楽,略して魚田(ぎよでん)といった。こうして《守貞漫稿》が〈今ハ食類ニ味噌ヲツケテ焙(あぶり)タルヲ田楽ト云,昔ハ形ニ因テ名トシ,今ハ然ラズ〉というように,串に刺さず,ただ,みそをつけて焼く料理一般をも田楽と呼ぶ風を生じた。また,女房詞(にようぼうことば)で田楽を〈おでん〉といったが,これは後に煮込み田楽をさすようになった。田楽の名は南北朝から見られるが,江戸時代になると各地にこれを名物とする店が出現した。最も有名だったのは,京都祇園社境内二軒茶屋のもので祇園豆腐と呼ばれ,味とともに竹串を2本使うことも評判だったようで,後には大坂や江戸にもこれを名のる店があった。東海道では近江の石部・草津間の目川(めがわ)の茶屋が,菜飯(なめし)田楽と呼んで売ったものが評判で,これは〈目川(女川)菜飯〉を称する店を各所に続出させた。ほかに江戸では真崎(まつさき)稲荷(現,荒川区南千住3丁目)境内の田楽茶屋,および神田鎌倉河岸の酒店豊島屋のものが名高かった。前者は美味をうたわれた吉原豆腐を用い,後者は自店で豆腐をつくり,それをすべて田楽にして店頭の立飲み客に売ったもので,大きいところから大田楽の名を得て人気があり,〈真崎で豊島屋を云ふ下卑たこと〉という川柳がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田楽」の意味・わかりやすい解説

田楽(芸能)
でんがく

日本中世の代表的芸能。もとは田植にかかわる楽であったが、平安時代中期以後、一つの楽舞として成立した。田楽は、中国においては散楽(さんがく)の一種目とみられ、宋(そう)(960~1279)の時代には都でも盛行していた。それは日本に田楽が登場する時期とほぼ見合っている。散楽百戯(ひゃくぎ)といわれたように、散楽は雑伎(ぞうぎ)の集成であり、そのなかの田楽が日本に取り入れられ、日本風に展開を遂げたものとみられる。中国の田楽の楽器は日本の田楽にも通じ、また形は異なるが曲芸の高足(たかあし)もあった。

 日本における田楽史料の初見は、延喜(えんぎ)22年(922)4月7日、和泉(いずみ)国(大阪府)一宮の大鳥(おおとり)明神の祭礼に田楽が出たという同社の記録であるが、次の長保(ちょうほう)元年(999)4月10日、京都の松尾(まつお)神社の祭礼に山崎の津人(つにん)が田楽を行ったという『日本記略』の記録との間には隔たりがありすぎる。ただ両社とも4月初めの苗代にもみ種を播(ま)く種下(たねおろ)し祭のようにみられることが注目されるが、田楽の態様は不明である。次は『栄花物語』の1023年(治安3)に藤原道長(みちなが)家で催した遊興の田植の田楽と、同じころ『今昔物語』の近江(おうみ)(滋賀県)の矢馳郡司(やはせぐんじ)の御堂供養(みどうくよう)における田楽である。前者では田主(たあるじ)や昼飯持ちなどが演出され、田植を笛、腰鼓(こしつづみ)、簓(ささら)などで囃(はや)し、散楽者が動員されたようである。後者のほうは田植ではなく、田楽を御堂の供養に応用したのである。遊興の田植は宮廷でも催されていくが、田植の労働編成や統制に田楽を活用した大田植(おおたうえ)も、開発領主化する郡司層などによって進展した。一方、1096年(永長1)の祇園(ぎおん)祭を頂点とし、郷村から押し出した田楽団が京中を巻き込んで狂乱の風流(ふりゅう)となり、白河院の催した田楽が楽舞化の契機となった。それは後の関白藤原忠実(ただざね)が教書(きょうしょ)で、「田楽は散楽を基本とし、風流を先にすべし」というように、散楽を基本にそれを整頓(せいとん)したものといえよう。やがて1129年(大治4)にはプロの田楽法師が登場し、平安末から鎌倉期にかけて楽舞化した田楽の大流行をみるが、猿楽能(さるがくのう)に圧倒されて室町期には衰退した。

 田植の楽としての田楽は、中世の開発領主や名主(みょうしゅ)たちの大田植の楽として近畿地方から遠国にまで普及したが、近世に入るとそのおおかたは失われた。中国地方に囃田、大田植として遺存するほか、伊勢(いせ)神宮などの御田植(みたうえ)にわずかながらそのおもかげをとどめている。

 また、楽舞化された田楽の舞人は、小鼓、銅拍子(どうびょうし)、編木(びんざさら)、腰鼓の左右8人ないし10人の編成で、散楽の曲芸の高足や刀玉(かたなだま)などをあわせて演じるものとなり、近代に入っても70余か所に遺存した。代表的なものは、岩手県の毛越寺(もうつうじ)、愛知県の鳳来寺(ほうらいじ)、和歌山県の熊野那智(なち)大社、島根県隠岐島前(おきどうぜん)の美田八幡宮(みだはちまんぐう)などの田楽である。

[新井恒易]

『本田安次著『田楽・風流』(1972・木耳社)』『新井恒易著『中世芸能の研究――田楽を中心として』全2巻(1972、1974・新読書社)』



田楽(料理)
でんがく

豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに調味みそをつけて焼いた料理。田植の田楽舞に、横木をつけた長い棒の上で演ずる鷺足(さぎあし)という芸がある。足の先から細い棒が出て、腰から下は白色、上衣は色変わりという取り合わせが一見、白い豆腐に変わりみそを塗った豆腐料理に感じが似ているので、この名があるという。江戸後期の川柳に「田楽は昔は目で見、今は食い」と、ある。そのころ、田楽はいろいろの形のものが全国的に各地各様の形式や材料でつくられ、茶店などの軽飲食店では主たる売品としているものもあった。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』のなかでも、食べ物としては田楽がいちばん多く出てくる。江戸中期以降の園遊会には、料理は田楽が主として用いられていた。江戸田楽の串(くし)は先が分かれていない1本の棒で、関西は二またになった串が使われていた。江戸の串はその後3本足になったが、これは近江(おうみ)(滋賀県)目川で古くから用いられていた。目川田楽は豆腐を葛煮(くずに)してどろっとした味にするのと、3本足の串だから崩れにくいのが特色で、園遊会向きに好まれ、江戸田楽はこの形式を取り入れるようになった。

 田楽の応用料理は数多くある。魚を焼いてみそをつけたものを魚田(ぎょでん)という。アユの魚田は秋に成育して川口近くに下ってきた落ちアユを用いるのがいいが、若アユの魚田もある。ハゼ、ヤマメ、イワナなども魚田に適する。いも田楽はサトイモを下煮してみそをつけたものである。徳島の郷土料理に「でこまわすで」といういも田楽がある。この地方で有名な阿波(あわ)人形をでこという。いも田楽が熱いのでふうふう吹きながら串を回して食べるかっこうが、阿波人形を踊らせているのに似ているのでこの名がつけられた。

 田楽は、おの字をつけてお田楽となり、楽がとれておでんになり、料理も今日の煮込みおでんへと発展した。

[多田鉄之助]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「田楽」の意味・わかりやすい解説

田楽(芸能)【でんがく】

田園の行事から発生したとされる芸能で,数種ある。1.歌や笛・太鼓の囃子(はやし)で早乙女(さおとめ)が実際に田植をするもの。2.小正月のころ,その年の豊作を祈って刈入れまでの稲作の過程をまねて行う予祝の芸能。3.田楽躍(おどり)。高足や一足などの曲芸も演ずる田楽法師が,びんざさらを持ったり太鼓をかけたりして,笛の囃子につれてさまざまに陣形を変えて踊ったもの。4.田楽能。古い猿楽能の影響で作られ,田楽法師らが演じた能。
→関連項目延年神楽劇場ささら(楽器)散楽田遊竹馬

田楽(食品)【でんがく】

田楽焼の略。豆腐を竹串(たけぐし)に刺し,みそをつけて焼いた料理。サトイモ,こんにゃくなどにも応用され,魚肉によるものを魚田(ぎょでん)と称する。串に刺した形が田楽の舞姿に似ているところからの名称という。田楽みそは,ふつう赤みそに砂糖を入れた練りみそで,木の芽田楽にはサンショウの若芽をすり入れたみそを使う。煮込田楽は略しておでんとも呼ぶ。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田楽」の意味・わかりやすい解説

田楽
でんがく

日本の芸能の1つ。平安時代に始る。もとは田植えなどの農耕に歌舞を奏した文字どおり田の楽であった。平安時代後期には,貴族が遊興のために催すことも多く,早乙女が苗を植えるのを田楽衆がささら,笛,腰鼓などで囃 (はや) して乱舞した。のちに田楽法師という職業的芸人が生れて腰鼓,笛,銅拍子,ささらなどを使った群舞と,高足 (たかあし) に乗り,品玉を使い,刀剣を操るなど散楽系の曲芸をもっぱらとした。このように田楽は芸態上,田囃子の田楽と田楽法師による田楽踊とに大別される。鎌倉時代の中頃 (13世紀なかば) に猿楽能が生れて世に歓迎されてからは,田楽の能を演じて室町時代初期 (15世紀初め) にはその覇を争ったが,敗退して急速に衰えた。今日では民俗芸能として,社寺の神事である田楽踊のほか,広島県,島根県に「花田植」「囃し田」の名称で田囃子の田楽が伝えられている。

田楽
でんがく

豆腐,サトイモ,こんにゃくなどに串をさし,調理味噌,木の芽などをつけて焼いた料理。田楽の舞のうち,鷺足と称する一本足の竹の上に乗るしぐさがあり,この姿に似ているとして名づけられた。同様に魚を焼いたものを魚田 (ぎょでん) という。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「田楽」の解説

田楽
でんがく

稲作に関する諸芸能の総称。狭義には職業芸能者である田楽法師が演じた田楽踊を中心とする芸能をさし,広義には田植をはやす楽,予祝の田遊び,風流(ふりゅう)田楽を含む。田植をはやす楽は「栄花物語」にみられ,祭礼での専業者による田楽も平安末期成立の「日本紀略」に記される。田楽踊では編木(びんざさら)・締太鼓・銅拍子・笛などの楽器を用い,散楽(さんがく)系の高足(たかあし)・刀玉(かたなだま)などの曲芸も交じえた。1096年(永長元)京洛に爆発的に流行した永長の大田楽は,都人が田植や田楽法師をまね,飾りたてて練り歩いたもので,風流田楽とされる。鎌倉中期以降は田楽法師のワキ芸であった物真似の芸が発達し,田楽の能として一忠(いっちゅう)などの名人が輩出した。現在も民俗芸能としてさまざまな田楽が伝承されている。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典 「田楽」の解説

でんがく【田楽】

「田楽焼き」「田楽豆腐」の略。こんにゃくを串に刺してゆで、みそをつけたものをいうこともある。◇田植えと縁の深い芸能であった「田楽」を舞うときに、棒のついた台に乗る様子が、豆腐に串を刺した形に似ていることからこの名があるとされる。⇒田楽焼き田楽豆腐

出典 講談社和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「田楽」の解説

田楽
でんがく

平安〜室町時代に盛んに行われた民衆芸能
農民の田植祭りの音楽に端を発し,都市で芸能化されたもの。院政のころ,奇抜滑稽な動作や華麗な服装をもって踊り歩く集団的舞踏として流行した。中世に神社の祭礼芸能として発展し田楽能となった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の田楽の言及

【芸能】より

… また,散楽は曲芸,幻術,物真似などを含み宮廷の饗宴の余興にも演じられたが,また民間にも流布して,猿楽(さるがく)とよぶ芸能を生んだ。平安中期に著された藤原明衡の《新猿楽記》には,猿楽を専業とする芸人が京の稲荷祭の雑踏の中で滑稽猥雑な寸劇や曲芸,さらには傀儡(くぐつ),田楽(でんがく)などの芸も演じて人気を博したとあるが,傀儡は人形まわしで,当時これを中心に歌舞,幻術,曲技などをもって各地を巡回する芸能集団も別にあった。また田楽は元来田植の祭事に演じられたお囃子で,太鼓,編木(びんざさら)主体の野性的な音楽の魅力が人気をよび,やがて猿楽にも取り入れられ,またこれを主体に演ずる田楽法師と称する専業芸能者が生まれた。…

【猿楽】より

…平安末期の藤原明衡(あきひら)の《雲州消息》や《新猿楽記》にも同じ事情をものがたる記載がある。《新猿楽記》には,〈呪師(しゆし)〉〈侏儒舞(ひきうどまい)〉〈田楽(でんがく)〉〈傀儡(くぐつ)〉などをも含み,猿楽が諸雑芸の総称ででもあったらしいことが知られるとともに,その記載の題目から,物まね芸を主軸として笑いを誘う類の芸,のちの〈狂言〉の源流となる性格のものを,多分に含んでいたことが知られる。平安末期の猿楽は,いわば物まね系統の芸と,せりふ劇系統の芸を主とするものであったが,鎌倉期にはいると,延年の風流(ふりゆう),連事(つらね),答(当)弁(とうべん),あるいは《式三番》(《翁》)に付属する狂言風流などから類推して,歌舞劇系統の芸が進出したらしく思われ,それらは,総合的に発達していったようである。…

【日本音楽】より

…また,宮中の祭祀楽も御神楽(みかぐら)として,その形態が整えられ,雅楽の中に含まれるようになった。これらは貴族の音楽であるが,民衆の音楽としては田楽(でんがく),猿楽(さるがく),雑芸(ぞうげい)などが行われた。雑芸の歌謡の中には,貴族の間の流行歌謡ともなった今様(いまよう)も含まれる。…

【舞】より

…その媒体となったのが,奈良・平安時代に輸入され普及した外来の楽舞――伎楽(きがく),舞楽(ぶがく),散楽(さんがく)であった。伎楽は早くに滅びたが,その師子(しし)の芸は,二人立ちの獅子舞となって民俗芸能に大きな分野を占め,舞楽は平安時代に著しく日本化され,のち,延年(えんねん)や猿楽能(能)の舞に影響を与え,散楽は,田楽(でんがく)や猿楽を育てる大きな要素となった。
[延年の舞]
 延年は,興福寺や延暦寺などの近畿の諸大寺をはじめ,各地の寺院で行われた芸能で,平安末から鎌倉時代にかけて栄えた。…

【民俗芸能】より

…長年全国を踏査して多くの研究成果をあげた本田安次(1906‐ )は,これを整理して次のような種目分類を行った。 (1)神楽 (a)巫女(みこ)神楽,(b)出雲流神楽,(c)伊勢流神楽,(d)獅子神楽(山伏神楽番楽(ばんがく),太神楽(だいかぐら)),(2)田楽 (a)予祝の田遊(田植踊),(b)御田植神事(田舞・田楽躍),(3)風流(ふりゆう) (a)念仏踊(踊念仏),(b)盆踊,(c)太鼓踊,(d)羯鼓(かつこ)獅子舞,(e)小歌踊,(f)綾踊,(g)つくりもの風流,(h)仮装風流,(i)練り風流,(4)祝福芸 (a)来訪神,(b)千秋万歳(せんずまんざい),(c)語り物(幸若舞(こうわかまい)・題目立(だいもくたて)),(5)外来脈 (a)伎楽・獅子舞,(b)舞楽,(c)延年,(d)二十五菩薩来迎会,(e)鬼舞・仏舞,(f)散楽(さんがく)(猿楽),(g)能・狂言,(h)人形芝居,(i)歌舞伎(《図録日本の芸能》所収)。 以上,日本の民俗芸能を網羅・通観しての適切な分類だが,ここではこれを基本に踏まえながら,多少の整理を加えつつ歴史的な解説を行ってみる。…

【洛陽田楽記】より

…1096年(永長1)成立。96年夏ごろから京中で大流行した田楽について記したもの。下町の民衆からおこって公卿,文人にまで及び,礼服を着し甲冑をつけて田楽踊の狂態を演じたことが活写されている。…

【おでん】より

…田楽豆腐などの田楽を略して接頭語の〈お〉を付した語。田楽の意であるが,19世紀初めころからみそをつけて焼く本来の田楽に対し,その変形である煮込み田楽を〈おでん〉と呼ぶようになったようである。…

※「田楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android