常田堰
ときだせぎ
神科台地東部笹井村小字篠井久保地籍で神川より揚水し、台地南端を迂回しながら北流し、国分寺村・踏入村・常田村などの条里的遺構を残す水田地帯を灌漑している。明治初年における灌漑段別一九八町歩(長野県町村誌)。なおこの堰は神科台地より流下する新屋堰・笹井染屋堰・岩門堰などの末流である長福寺沢・堂ノ沢・押出川などを合流して蛭沢川となり、上田城下町中央を東から西に流れ、城下町の用水として、また上田城の堀水として重要であった。堰の開削については、上田城の堀用水として、上げ沢堰を改修延長したものと推定されているが、年代などは明確でない。
寛文八年(一六六八)三月「原町問屋日記」(滝沢家文書)に「常田堰普請人足百人、海野町・原町より出す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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