日本歴史地名大系 「国分寺村」の解説
国分寺村
こくぶんじむら
〔中世〕
「神鳳鈔」に伊勢神宮内宮領の「国分寺御厨」がみえる。神領記には「国分寺御厨一貫五百」とある(旧版「姫路市史」)。なお「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条に載る林光院領所々目録のなかに「播磨国々分寺年貢銭参拾貫文」とみえ、所領としての国分寺は京都
国分寺村
こくぶんじむら
- 東京都:国分寺市
- 国分寺村
現市域の南東部を占める。北は恋ヶ窪村・本多新田、東は
国分寺村
こくぶんじむら
千曲川の北岸で、
天平一三年(七四一)以後、聖武天皇の詔によって建立された信濃国分寺跡があり、昭和三八年(一九六三)からの発掘により、僧寺の金堂跡・講堂跡、尼寺の金堂跡、更に布目瓦の窯跡などが確認され、いま、信濃国分寺史跡公園として保存されている。この公園の北側二〇〇メートルの段丘上には現在の国分寺があり、境内に薬師堂(本堂)・三重塔(重要文化財)等がある。
集落はこの国分寺の門前集落として発達したものである。
「将門記」に、「今件貞盛、将門会稽未遂(中略)以二月廿九日、追着於信濃国小県郡国分寺之辺、便帯千阿川、彼此合戦之間、無有勝負」と記され、平貞盛を追った平将門が信濃国分寺で追い付き、貞盛方の
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
南長柄村の南にあり、淀川西岸に位置する。南は
嘉吉二年(一四四二)九月二日の小笠原左京亮成実書状案(藻井家文書)によると「渡辺国分寺内平田跡」が
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
国分寺村
こくぶんじむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報