国分寺村(読み)こくぶんじむら

日本歴史地名大系 「国分寺村」の解説

国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]姫路市御国野町国分寺みくにのちようこくぶんじ

飾東しきとう郡に所属。あま川の右岸に位置する。山陽道が南を東西に走り、南は御着ごちやく村、西は加納原田かのうはらだ村・やまわき村。壇場山だんじようざん古墳や播磨国分寺跡などの史跡が密集し、古代から播磨国の政治・文化の中心地であった。集落は播磨国分寺跡の北西に隣接する牛堂山国分寺(現高野山真言宗)の門前に発達し、古くは単に門前もんぜんとよばれていた(「牛堂山国分寺略記」智恵袋)

〔中世〕

神鳳鈔」に伊勢神宮内宮領の「国分寺御厨」がみえる。神領記には「国分寺御厨一貫五百」とある(旧版「姫路市史」)。なお「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)七月五日条に載る林光院領所々目録のなかに「播磨国々分寺年貢銭参拾貫文」とみえ、所領としての国分寺は京都相国しようこく鹿苑ろくおん院の塔頭林光りんこう院領であった。永正一五年(一五一八)一一月七日の新右衛門尉売場売券(芥田文書)によれば、野里のざと村の新右衛門尉(鋳物師か)が「大村国分寺金屋」から買得した売場(縄張り、商業圏の意)を直銭二〇貫で芥田氏に売渡している。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]国分寺市東元町ひがしもとまち一―四丁目・西元町にしもとまち一―四丁目・本町ほんちよう一―四丁目・南町みなみちよう一―三丁目・泉町いずみちよう一―三丁目・本多ほんだ一―二丁目・東恋ヶ窪ひがしこいがくぼ一丁目・西恋ヶ窪にしこいがくぼ一丁目

現市域の南東部を占める。北は恋ヶ窪村・本多新田、東は貫井ぬくい(現小金井市)、南は府中新宿・府中本ふちゆうほん町・府中番場ふちゆうばんば宿(現府中市)、西は屋敷分やしきぶん村・本宿ほんしゆく(現同上)・恋ヶ窪村。川が北から南東へ流れる。田園簿に国分寺村とあり、田二二石余・畑一〇三石余、ほかに野村彦大夫代官所納の野銭永三二五文、薬師(国分寺)領九石余。集落の大部分は国分寺崖線下に東西に並ぶ。江戸時代初期には家並が清戸きよと街道(現国分寺街道)沿いの古宿ふるじゆくに南北に並んでいたが、その後現在に近い姿になった(年不詳「古絵図」国分寺蔵)。延宝六年(一六七八)の府中領総検地では本田二一四石余・新田一三六石余となり(「検地帳」「新田検地帳」本多家文書)、その後も享保一八年(一七三三)・元文元年(一七三六)などに新田検地を受け、総高四五九石余になった(安永七年「村明細帳」同文書)


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]上田市大字国分こくぶ

千曲川の北岸で、かん川が合流する西側にあたり、神科かみしな台地南側段丘下一帯の地域。東は神川を隔てて岩下いわした村、西は踏入ふみいり村、南は千曲川を隔てて小牧こまき村、北は岩門いわかど村と境をなす。村の北側一帯は条里的遺構を残す、水田地帯が広がっている。

天平一三年(七四一)以後、聖武天皇の詔によって建立された信濃国分寺跡があり、昭和三八年(一九六三)からの発掘により、僧寺の金堂跡・講堂跡、尼寺の金堂跡、更に布目瓦の窯跡などが確認され、いま、信濃国分寺史跡公園として保存されている。この公園の北側二〇〇メートルの段丘上には現在の国分寺があり、境内に薬師堂(本堂)・三重塔(重要文化財)等がある。

集落はこの国分寺の門前集落として発達したものである。

「将門記」に、「今件貞盛、将門会稽未遂(中略)以二月廿九日、追着於信濃国小県郡国分寺之辺、便帯千阿川、彼此合戦之間、無有勝負」と記され、平貞盛を追った平将門が信濃国分寺で追い付き、貞盛方の小県ちいさがたの人とされる他田真樹が戦死を遂げ、貞盛は山中(国分寺の対岸小牧山と推定)に逃れるなど、後世に残る戦場となった場所である。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]上越市五智ごち一―六丁目・国府こくふ一丁目・石橋いしばし一―二丁目・西本にしほん町三丁目・さかえ町二丁目・五智国分ごちこくぶ五智新ごちしん町・愛宕国分あたごこくぶ毘沙門国分寺びしやもんこくぶんじ大場おおば居多こた

安国寺あんこくじ村・善光寺浜ぜんこうじはま村の西に位置。北は海に面し、南は中屋敷なかやしき村・大豆だいず新田村。式内社居多こた神社や国分寺があり、直江津に近接して古くから開けた地域である。村名は正保国絵図にみえ高八六六石余。天和三年郷帳では二五石八斗余。このほか国分寺村の小村居田こた村が別にあげられている。同村の高一九石二斗余。国分寺村の高が正保国絵図記載の高に比べて少ないのは、当地の愛宕神社・国分寺が各二〇〇石、高田城下惣持そうじ(毘沙門堂)が二〇〇石、同じく城下の称念しようねん寺が一五〇石の朱印地を当村内にもっていたため、その分などが除かれているためである。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]大淀区国分寺一丁目・長柄東ながらひがし一丁目、北区樋之口ひのくち町・菅栄かんえい町など

南長柄村の南にあり、淀川西岸に位置する。南は川崎かわさき(現北区)で、西の村境を亀山かめやま街道が通る。村名は摂津国分寺があったところから名付けられたといい、現東淀川区の法華ほつけ寺は国分尼寺であったと伝える。「摂津志」は旧村名を「北渡辺」とする。

嘉吉二年(一四四二)九月二日の小笠原左京亮成実書状案(藻井家文書)によると「渡辺国分寺内平田跡」が崇禅そうぜん(現東淀川区)に寄進されている。同所については文安四年(一四四七)六月六日の崇禅寺領目録并室町幕府下知状案(同文書)に「渡辺国分寺内遠藤新左ヱ門・平田跡等散在田畠事」とある。また同年月日の崇禅寺領目録并細川道賢安堵状案(同文書)には「渡辺国分寺内田地 木村分 壱段小十歩」がみえる。


国分寺村
こくぶんじむら

鎌倉期から戦国期にかけてみえる御井郡の郷村。律令制下に設置された筑後国分寺に由来すると考えられ、その遺構は現国分こくぶ町の日吉神社などの一帯に確認されている。なお同国分寺は室町期に衰退、近世初頭までに寺域を筑後川北岸に移して再興され(久留米市史)、現みやじん五丁目の天台宗護国山国分寺として現在に至る。古代国分寺の地は近世に国分村となり、再興国分寺の地は近世に国分寺村となった。中世史料にみえる国分寺地名は筑後川南岸であれば当地の可能性があるが、いずれとも定めがたい場合がある。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]倉吉市国分寺

国府こう村の南西、国府川北岸に位置する。八橋やばせ往来がほぼ東西に通る。村名は集落の後背地久米くめはらの台地上に伯耆国分寺があったことによる。拝領高は三〇四石余、本免五ツ。鳥飼氏・山口氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では三一五石余、竈数二〇余。寛政年間(一七八九―一八〇一)久米郡御通筋厘付帳(県立博物館蔵)では本田高三三四石余(うち畑高四六石余)、午荒引一石余を引いた今高三三三石余、物成一六五石余、家数四三、男七一・女六六、牛二〇。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]国府町国分寺

中郷ちゆうごう村の南西に位置する。村名は古代因幡国分寺にちなみ、集落内に寺跡が残る。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)によると村境はほぼ直線的で、条里制の区画に準じたものと考えられる。慶長九年(一六〇四)六月一四日の池田長政領知目録写(岡山大学付属図書館蔵)に村名がみえ、九四〇石が池田長吉から三男長政に与えられている。藩政期の拝領高は四六一石余、本免は五ツ二分。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]西郷町池田いけだ

有木あらき村の西方に位置し、西を八尾やび川が流れる。村名は古代の隠岐国分寺があったことによる。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一〇〇石余・八町一反余、畑八石余・四町六反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一二匁(うち一匁は尼寺分)・核苧五二〇目役一匁四分。家数三〇(百姓二一・間脇九)のうち御役目屋敷一二(うち一は尼寺分)、男六七・女八〇、坊主五・禅門二・座頭一、牛三〇・馬二〇。山王権現池畦いけぐろ明神など五社が鎮座。真言宗の国分寺は古くは寺家に大乗だいじよう坊・本蔵ほんぞう坊・安楽あんらく坊・玉蔵ぎよくぞう坊・大楽だいらく坊・岸本きしもと坊があったという。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]日高町国分寺

禰布によう村の東、円山まるやま川とその支流稲葉いなんば川が形成した沖積地(国府平野)の西部に立地。古代の但馬国分寺の所在地で、地名は同寺に由来。中世には国分寺が再興されており、南北朝期以降は国分寺城が史料に登場する。江戸時代の領主の変遷は宵田よいだ村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高一四六石。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高二八一石余(うち二四石余は畑)。元禄八年(一六九五)の免相下作之帳(上坂家文書)では高二七六石余。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]久留米市みやじん五丁目

筑後川中流右岸の自然堤防上にあり、西は宮地みやのじ村に接する。古代の筑後国分寺は御井郡国分こくぶ村に所在したことが確認されており、当地には中世以降に移転したという(太宰管内志)。中世に国分または国分寺とみえるが、多くの場合国分寺に関連すると考えられる。本高は五三石余(元禄国絵図)


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]津山市国分寺

勝南しようなん郡に属し、北は河辺かわなべ村、西は日上ひかみ村。立石家由緒書上(立石文書)によれば、慶長八年(一六〇三)森忠政の美作入部に際し、立石家の祖先が国分寺村などを案内している。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方三〇五石余・畑方一一四石、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では五七七石余、うち改出高一一〇石余・開高四七石余。寛政元年(一七八九)の津山領郡村高帳では本田畑五三〇石余・新田畑四七石余・新開田畑一一石余。


国分寺村
こくぶんじむら

[現在地名]真野町国分寺

竹田たけだ村の南にあり、田方を竹田村に囲まれる。もと竹田村と一村同様であったが、いつ頃からか分村し国分寺および寺家四坊・寺百姓と村百姓とで構成される。元禄七年(一六九四)の検地帳(国分寺文書)では田四町六反余・畑五畝余で、国分寺・寺家持の田方は三町四反ほど、一般百姓持は一町二反ほどである。なお門前百姓は寺の田地を一戸当り四反三畝ずつ耕作し、一反歩二石取で、うち一石五斗を小作料として寺へ納めたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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