日本歴史地名大系 「常田村」の解説 常田村ときだむら 長野県:上田市常田村[現在地名]上田市常田一丁目―三丁目上田城の南東にあたり、北国脇往還に沿っている。東は踏入(ふみいり)村、西は上田城下横(よこ)町に接する。天正一一年(一五八三)、真田氏が上田城を築き城下町をつくった時、千曲川沿いの中島(なかじま)・下川原(しもがわら)・常田丁(ときだちよう)などから移住を命ぜられ「城下囲(じようかがこい)」の村の一つとなったと伝える(上田市史)が、安元二年(一一七六)八条院領目録(山科家古文書)には「信濃国常田」、「吾妻鏡」には「八条院御領常田庄」と記されている。下諏訪春秋両宮御造宮帳の永正三年(一五〇六)下諏方春宮一御柱造宮之次第に諏訪社下社春宮の造宮料を上常田・中常田がともに八貫八〇〇文ずつ課せられている。 常田村つねだむら 兵庫県:加東郡東条町常田村[現在地名]東条町秋津(あきつ)古家(ふるけ)村の東、東条川上流右岸に位置する。文永二年(一二六五)一一月三日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書(大川瀬住吉神社文書)に、「東条サイト(西戸)ツノエタ(常田カ)ユフ子(井船)ムラ」とみえる「ツノエタ」は常田のことと思われる。慶長国絵図には常田と記される。慶長六年(一六〇一)当村の高二〇九石余は池田輝政の家臣福田牛介の知行地となる(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。正保郷帳によると田方一六一石余・畠方八石余、幕府領。享保一三年(一七二八)陸奥棚倉藩領(「組内村々申合覚」片山家文書)、同一五年から寛保二年(一七四二)まで大坂城代土岐頼稔領(享保一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)、延享元年(一七四四)から同三年まで大坂城代堀田正亮(出羽山形藩)領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵など)、幕末には遠江浜松藩(のち上総鶴舞藩)領(旧高旧領取調帳など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by