上田城下(読み)うえだじようか

日本歴史地名大系 「上田城下」の解説

上田城下
うえだじようか

千曲川右岸の河岸段丘を利用してつくられた上田城を中心とする城下町。上田市のほぼ中心市街地にあたる。築城以前、東山道、北国道など交通の要点として既に一集落をなし、中世末から地方土豪の拠点であったらしい。約一〇キロ東北の真田さなだ(現小県郡真田町)に拠って小県ちいさがた地方及び北上州一円を勢力圏とした真田昌幸が、天正一一年(一五八三)上田盆地の中央にあたるこの地に築城した。昌幸は徳川家康にくみするに際し、「国端在之候ては、何事も不被成候間、国中へ罷出、方々御手遣仕度候」と述べたと江戸中期の「真武内伝」は伝える。以後上田領は真田氏二代四〇年間、元和八年(一六二二)から仙石氏三代八五年間、宝永三年(一七〇六)から幕末まで松平氏が支配した。領域・石高真田信之の時上野国沼田ぬまた領を含め九万五千石、他はおおむね小県郡・上田市域内で五万三千―五万八千石であった。

真田昌幸の築城は近隣諸豪に衝撃を与え、善光寺平に進出していた越後の上杉氏は、兵を東北の虚空蔵こくぞう山に置いて築城の状況を偵察させている(上杉年譜)。天正一三年には徳川家康が上田城攻めを行ったが、真田昌幸は城下の町家に火をかけるなどの徹底した戦術によってこれを退けた。

昌幸は、真田氏と縁の深いはら(現小県郡真田町本原)海野うんの(現小県郡東部町本海野)の住民を移し、原町海野町として商業を営ませ、また海野郷の鍛冶紺屋を移して鍛冶かじ町・紺屋こんや町などの職人町をつくった。これらを基幹に海野町分のよこ町、原町分の町・町・やなぎ町などの町並が逐次形成された。更に城下町北部の太郎たろう山山麓や南部の千曲川沿いに散在する房山ぼうやま山口やまぐち鎌原かんばら西脇にしわき新町しんまち生塚うぶつか諏訪部すわべ秋和あきわ常田ときだの九ヵ村を町の周囲に移住させて「城下囲じようかがこい」をつくった。城下囲の居屋敷はもともと無年貢であったが、松平氏時代になるとその特権が失われたので、宝永三年一〇月常田村外八ケ村居屋敷年貢免除願(中島弘爾氏蔵)が差し出されたが許されなかった。

仙石氏時代の絵図(成沢史料)によると、本丸を中心に二の丸・三の丸があり、その周辺の町・連歌れんが町・七軒しちけん町・丸堀まるぼり葭原よしはら・鎌原・西脇新参しんざん町・鷹匠たかじよう町・八軒はちけん町・馬場ばば町・大工だいく町・ふくろ町などに侍屋敷があって、裏にそれぞれ百坪ほどの菜園をもっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の上田城下の言及

【上田[市]】より

…長野新幹線・しなの鉄道・上田電鉄などが走る交通の要衝をなす。【市川 健夫】
[上田城下]
 信濃国小県郡の城下町,北国脇往還の宿場町。地名の初見は1329年(元徳1)の上田庄。…

※「上田城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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