鎌原村(読み)かんばらむら

日本歴史地名大系 「鎌原村」の解説

鎌原村
かんばらむら

[現在地名]嬬恋村鎌原

浅間山北麓の広大な村で、吾妻川右岸に位置する。村の中心部は標高約九〇〇メートル、東北は芦生田あしうだ村、北は吾妻川を境に赤羽根あかばね中居なかい西窪さいくぼの各村。貞治元年(一三六二)一〇月一八日のしゝ大夫旦那職譲状(下屋文書)に「かまはらのや六・や七」、天正一八年(一五九〇)一〇月一四日の真田信幸定書写(渡文書)に「鎌原」とみえ、火急の際の人馬を供出する一ヵ所とされた。下屋将監幸房の嫡孫幸兼が鎌原を名乗って当地を開拓、鎌原城に拠り西吾妻第一の豪族に成長したと伝える。

万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高一九七石余。寛文郷帳では田方三五石九斗余・畑方一六一石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控によると八八七石余で鎌原縫殿給分。貞享二年(一六八五)沼田藩領再検地控では三九〇石余。元禄郷帳では幕府領。村域は東西一里余、南北四里余で、大戸おおど(信州道)が通った。須賀尾すがお(現吾妻町)へ五里の間馬継で信州飯山いいやま(現長野県飯山市)松代まつしろ(現長野市)須坂すざか(現同県須坂市)各藩米などを輸送した。中山道沓掛くつかけ宿(現同県北佐久郡軽井沢町)草津くさつ温泉(現草津町)にも連絡する要地で(文政一二年「村明細帳」鎌原区有文書)、宿は地割されて中央を用水が流れ、屋号のある屋並が続いた。

天明三年(一七八三)浅間焼けの直撃を受け、ほぼ全村が押出しにより埋没したといわれる。同年の浅間焼出大変記写(一場文書)には高三三二石余のうち三〇〇石余が泥押し、流失家屋九三と延命えんめい寺、流死人四六六とあり、同四年の浅間焼流死人施餓鬼経木届(鎌原文書)にも流死人四六六とあるが、文化一二年(一八一五)建立の三十三回忌供養碑では四七七人と一致しない。生存者は九三人といわれ(天明三年「浅間焼再建合力奇特人届写」干川文書、同四年「浅間山津波実記」富沢家蔵)、いずれにしても村民の約八割が犠牲となっている。幕府などの救助活動に先駆けて、干俣ほしまた村干川小兵衛や大笹おおざさ村黒岩長左衛門など近隣の富有者が当座の救助に当たっている(「寄特人写」干川文書ほか)


鎌原村
かんばらむら

[現在地名]上田市中央西ちゆうおうにし一丁目

上田城の北にあたる。矢出沢やでさわ川の南側を通る北国脇往還に沿っている。東は紺屋こんや町、西は西脇にしわき村、南は武家屋敷の並ぶ西鎌原町(大正時代より北大手町となる、現上田市中央西一丁目)に接している。北は条里的遺構を残す水田地帯が続き太郎たろう山麓となる。この辺りは「和名抄」記載の須波すわ郷に含まれていたと考えられている。永正三年(一五〇六)諏訪社下社の下諏方春宮一御柱造宮之次第によると、隣村西脇村が「常田庄房山之郷上西脇」「同下西脇」などとみえていることから、中世は、常田ときだ庄に含まれていたと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「鎌原村」の意味・わかりやすい解説

鎌原村【かんばらむら】

浅間山北麓に位置した近世の村。上野(こうずけ)国吾妻(あがつま)郡に所属する広大な村で,現在の群馬県嬬恋(つまごい)村鎌原にあたる。1783年(天明3年)の浅間山噴火は〈天明の浅間焼け〉と呼ばれ,その火砕流鎌原火砕流)の直撃を受けてほぼ全村が埋没。死者は470人前後,生存者は約90人といわれる。1979年からの埋没村落の総合調査の際,埋没家屋のほか観音堂下の埋没した石段から女性の遺体が発見されるなど,〈日本のポンペイ〉と称された。なお鎌原火砕流は熱泥流というより,乾燥粉体流と呼ぶべきものであった。→天明の飢饉

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