上田町
うえだまち
[現在地名]長岡市上
田町・
船江町・
渡里町
文化二年(一八〇五)写延宝年中(一六七三―八一)の長岡町割絵図(安禅寺文書)によると、東の裏町に続き東西に延びる。北は渡里町、西は内川の橋を渡って大工町、南は柳原町。家並は五間半の道幅を隔て南側二〇軒・北側一六軒。町名は堀氏が上田の坂戸(現南魚沼郡六日町)から移封のとき領民を連れてきて住わせたことにちなむという(「越の寄ふみ」長岡の歴史)。
上田町
うえだまち
[現在地名]東区泉一丁目・東桜一丁目、中区丸の内三丁目・錦三丁目
久屋町筋、久屋町の南にあり、さらに武家町に続く。杉の町筋と本重町筋との間の四丁、ただし四丁目には武家屋敷が少しある。慶長年中(一五九六―一六一五)清須(現西春日井郡清洲町)より移った。初めの町名は那古野町・名古屋町と称したが、城下の惣名と同じで、名古屋村の地名もあってまぎらわしいと、上田町に改めた。久屋町二丁目ともいった。氏神は那古野神社。
上田町
うえだちよう
中道通に位置。北は轟川。再板本(明和刊か)「京町鑑」増補分に「玉水町の東 青塚町 右青塚町の行当は八坂塔の前へ出る。但しいまだ家建つゞかず、地どりばかり也」とみえる青塚町は、この上田町・星野町付近に相当することが、同じ頃の洛中洛外絵図に、月輪町北辺に横町として「青塚丁」を記すことから確認できる。青塚町の名は青塚の旧跡が所在したことによると思われる。
上田町
かみたまち
[現在地名]長浜市朝日町
南の中田町から北の南新町に続く南北通りの両側町。瀬田村領年貢地。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数二二(借家四)、男三四・女五二で、町代・横目が置かれ、船持二・紺屋・畳屋・木挽・眼医者がおり、貸家一がある。
上田町
うえだまち
[現在地名]金沢市森山二丁目
文政六年(一八二三)に南北山上町を改称してできた町で(「又新斎目禄」加賀藩史料)、地子町(幕末「金沢町名尽」金沢市立図書館蔵)。天保町絵図に町名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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