平子鐸嶺(読み)ヒラコ タクレイ

20世紀日本人名事典 「平子鐸嶺」の解説

平子 鐸嶺
ヒラコ タクレイ

明治期の美術史家



生年
明治10(1877)年5月4日

没年
明治44(1911)年5月1日

出生地
三重県安濃郡津(現・津市)

本名
平子 尚(ヒラコ ヒサシ)

学歴〔年〕
東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科〔明治30年〕卒・西洋画科〔明治34年〕卒,哲学館専修科

経歴
東京美術学校の日本画、西洋画両科を卒業後、日本美術史の研究に打ち込み、明治36年東京帝室博物館嘱託内務省嘱託となる。この頃より“法隆寺非再建論”を主張して喜田貞吉と論争。40年内務省古社寺保存会嘱託、43年同委員。晩年は中国考古学(特に金石文)の研究に取り組む。また日本、中国の古美術研究の対象として仏典を取り上げた。著書に「仏教芸術の研究」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平子鐸嶺」の解説

平子鐸嶺 ひらこ-たくれい

1877-1911 明治時代の美術史家。
明治10年5月4日生まれ。日本美術史,仏教史の研究に専念。帝室博物館や内務省の嘱託,のち内務省古社寺保存会委員となる。法隆寺非再建論をとなえた。明治44年5月10日死去。35歳。三重県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。名は尚(ひさし)。別号に昔瓦。著作に「仏教芸術の研究」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の平子鐸嶺の言及

【法隆寺再建非再建論争】より

…同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。すでに早く1899年黒川真頼(まより)(1829‐1906)と小杉榲邨(すぎむら)(1834‐1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(708‐715)に再建したものという説を唱えたが,1905年関野貞(ただす)(1867‐1935)と平子鐸嶺(たくれい)(1877‐1911)が非再建説,喜田貞吉(1871‐1939)が再建説をそれぞれ主張して第1次論争が行われた。非再建説は飛鳥,白鳳,天平と変遷する建築様式論に基礎をおくが,特に西院伽藍建造の使用尺度が大化以前の高麗(こま)尺であるという関野の尺度論が重要な論拠となった。…

※「平子鐸嶺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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