第2次大戦前の天皇制体制下において内政の中心に位置した中央行政機関であり,1873年11月から1947年12月まで存続した。
明治新政府成立からしばらくの間,中央行政機構は目まぐるしく改変を繰り返した。たとえば1869年(明治2)7月,神祇,太政2官の下に民部,大蔵,兵部,刑部,宮内,外務の6省体制が形成され,内政は主として民部省によって所掌されていたが,同年8月には民部,大蔵の合併が,翌年にはその分離が行われるといったぐあいであった。民部省に代わって内務省が内政の中心行政機関として設立された背景には,征韓論をめぐる明治政府部内の変動があったといわれる。72年の春ごろより明治政府内には西郷隆盛らを中心とした征韓論が高まり,一時は西郷の朝鮮派遣が決定された。だが,この渦中に岩倉使節団が帰国する。そして征韓論に反対する大久保利通,木戸孝允らと西郷派との政治的対立が高じた。征韓論が大久保らによって否定され,征韓派は明治政府から下野した。しかし,征韓派の下野はそれにとどまらず,明治政府に不満を抱く旧士族集団の動きを活発化し,治安の悪化をもたらした。大久保,木戸らは政情の悪化を前にして警察制度の確立と内政事務を一元的に所掌する中央行政機関の設置を急ぎ,下僚(吉田清成)に新行政機構案の作成を命じた。ただ,この大久保らの着想には彼らが見聞してきた西欧の内務行政機構が影響しているともいわれる。ともあれ,内務省は73年11月10日,太政官布告375号にもとづいて設置され,大久保が初代内務卿に就任した。翌年1月に定められた〈内務省職制及事務章程〉によると,同省の所掌事務は地方行政,警察,勧業,戸籍,駅逓,土木,地理,測量,出版権,音楽歌舞などとなっている。その後,81年に農商務省が設置され,勧業を中心とする産業行政が移管され,内務省は警察行政と地方行政を主として所掌することになった。すなわち,中央集権支配の権力装置の中核として,民衆運動の弾圧,思想取締りから,選挙干渉,さらには家庭の大掃除,祝祭日の国旗掲揚についての説論にいたるまでの監視,統制を担った。
1885年の内閣制度の発足によって太政官制度は廃止され,中央行政機構も再編された。内閣総理大臣の下に外務,内務,大蔵,陸軍,海軍,司法,文部,農商務,逓信の各大臣がおかれた。このとき内務省の内部部局も改められ,大臣官房,総務局,県治局(1886年地方局に改称),警保局,土木局,衛生局,地理局,社寺局,会計局から構成された。その後内部部局編成に若干の変動はあるが基本的には変わらない。ところで,内政は内務省のみによって所掌されていたわけではないが,内務省が内政の中心に存在しえたことは地方行政制度と切り離して論ずることはできない。戦前期の行政執行体制の一つの重要な特徴は,府県知事を国の地方行政機関として位置づけ,実施機関としたことにあった。府県知事は各省の事務を実施するにあたって各省大臣の指揮監督を受けた。しかし,この重要な知事の人事権および府県庁の組織と人事権は内務大臣に所掌されていた。ここに内務省が警察行政をはじめとする内政事務の所掌に加えて,内政の中心に位置できた理由がある。すなわち,明治政府は内閣制度の創設に合わせて,警察を中心とした地方行政制度の集権的整備をはかり,議会に対する政府の堡塁としての役割を担わせたのである。86年7月勅令54号をもって〈地方官官制〉が公布されたが,これにもとづき内務省は知事人事権を確立するとともに,知事は部内の行政事務(規制権限)および警察事務を所掌することに加えて,法令の範囲内において府県令を発することができるものとなった。その後,88年,89年に地方団体法として市制・町村制(市町村制),府県制・郡制が施行され地方団体は法人格をもつことになったが,地方官官制は存続しており内務省の府県知事を通じた地方支配体制に変化はなかった。
第1次大戦後の都市化と工業化の進展は,日本の政治に大きな変化をもたらした。労働運動や各種の社会運動が台頭し普通選挙権の獲得が民衆運動の課題となった。政府は1925年に男子普通平等選挙権を内容とした普通選挙法を制定したが,これにより,以前から台頭していた政党政治は一段と加速した。そして30年ころまで政友,憲政(民政)両党が交互に政権を握ったが,これにともない内務官僚,地方官(知事等)の大異動が政権交代のたびに行われた。内務省が警察,選挙をはじめとした内政事務を一元的に支配していたゆえんである。こうした事態と並んでこの時期の内務行政には都市化にともなう社会問題の深刻化や社会運動の高揚に対応した変化もみられる。1919年の都市計画法の制定と事務の所管(1922年都市計画局を設置),20年の社会局の設置による救貧行政,労働行政の所管がそれである。また関東大震災後の24年には復興局を設置した(1930年復興事務局と改称し,32年に廃止)。
政党政治の期間は短かった。1930年代に入ると軍部を中心とするファシズムが台頭し,日本は日中戦争さらに太平洋戦争へと突入していった。38年国家総動員法が施行され内務省は統制経済に対応して経済警察,輸送統制,労働統制などの行政警察を所管した。また1925年の普通選挙法と同時に治安維持法が施行されたが,28年三・一五事件の直後に同法は改められ〈国体変革〉を目的とした結社成員の取締りを強化し内務省警保局に高等課,府県庁に特別高等警察課が設置された。この警察機構の拡充によって,全国的規模で社会運動に弾圧を加え,以降戦時行政下において内務省は治安警察機能をしだいに高めていった。また41年には防空局(1943年防空総本部)を設置し防空事務を所掌した。しかし,45年8月の敗戦とGHQの指導による戦後改革にともない,内務省は特高制度ならびに戦時行政機構を廃止し,また地方局を中心として地方制度の民主的改革案の作成に努めた。47年5月の日本国憲法の施行後,GHQは日本の民主化,分権化のために内務省の解体を命じ,同年12月31日内務省は解体され74年の歴史を閉じた。旧内務省との人脈,仕事の流れからいえば,自治省,厚生省,建設省,運輸省,労働省,警察庁などがその系列に属している。
執筆者:新藤 宗幸
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明治~昭和(戦前)期の地方行政や警察など対民衆行政一般を所管した中央行政官庁。廃藩置県(1871)後、国内行政は大蔵省の所管であったが、所管事務の多すぎる弊があり内政専務の省の必要が唱えられていた。1873年(明治6)征韓論をめぐる政変を機に、同年11月内務省設置が公表され、創設の発議者で当時政府の実権を握っていた大久保利通(としみち)が初代内務卿(きょう)に就任し、翌年1月省機構が確定し太政官(だじょうかん)中の一省として執務が開始された。当初の機構は、大蔵省から勧業、戸籍、駅逓(えきてい)、土木、地理の5寮を、司法省から警保寮を、また工部省から測量司を移した6寮1司の構成で、内務行政の主軸は、富国強兵のための勧業政策と国内治安対策の推進にあった。1875年文部省より衛生、図書(検閲)事務を、1877年教部省廃止に伴い社寺局を移管した。1881年新設された農商務省に殖産興業関係事務を移管して、警察、土木、地方行政を専務とする省となり、おりから盛り上がりをみせる自由民権運動に対し、言論、集会、結社の取締りなど政治警察事務の比重を高くした。1885年内閣制度の実施に伴い内閣下の一省となり、大臣官房以下、総務、県治(1898年地方局と改称)、警保、土木、衛生、地理、会計、戸籍(1886年課に格下げ)、社寺(1900年宗教、神社の2局に分離)の9局となり、内務省機構がほぼ固まった。初代の内務大臣は山県有朋(やまがたありとも)であるが、彼の官僚閥形成の基盤となった。その後、1887年造神宮使庁(ぞうじんぐうしちょう)を置き、国家神道(しんとう)政策を推進、1890年内閣より鉄道庁を移管した。1920年(大正9)には、社会問題の発生、社会・労働運動の高揚を反映して社会局が新設され、関東大震災後の1924年には復興局が置かれた。ついで1937年(昭和12)には戦時体制下に計画局を、1941年に国土局と防空局を設置した。内務大臣は各府県知事をはじめ地方高官の人事権をもち、全国警察の統轄者として警察権をも握った。1928年には全国府県に特別高等警察を置き、一般行政警察とともに政治警察をも担当した。こうして内務省は、治安警察法、治安維持法などの治安立法を運用し、選挙干渉や大衆運動の弾圧、思想統制など、国民の生活全般にわたって管轄、統制を行った。1945年(昭和20)敗戦を機に、特高警察廃止に始まる占領軍の民主化政策で機構を縮小してゆき、1947年12月全体が廃止された。
[佐々木克]
『『内務省史』全四冊(1971・地方財務協会/復刻版・1980・原書房)』
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第2次大戦前,内政を管轄した中央官庁。明治6年の政変直後の1873年(明治6)11月,太政官の一省として設置。初代内務卿は大久保利通(としみち)。大蔵・司法・工部省などから省務の一部を移管し,勧業・警保・戸籍・駅逓(えきてい)・土木・地理の6寮と測量司をおいて分掌した。とくに殖産興業政策を推進し,国内の警察事務を統轄。81年農商務省の設置により殖産興業の部門を分離。85年内閣制度の確立により内閣の一省となり,大臣官房および総務(のち庶務)・県治(のち地方)・警保・土木・衛生・地理・社寺(のち宗教)・会計(のち庶務)の各局が設けられた。国内の地方行政・警察行政・選挙事務などを管轄して大きな権限をもち,1920年代には社会政策にも力を注いだ。38年(昭和13)衛生・社会局の事務を新設の厚生省に移管。第2次大戦下には戦時体制形成の中核となったが,敗戦後は占領軍の圧力により47年12月に廃止された。
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…地方自治制度の企画,立案および運営の指導,国と地方公共団体との連絡協調をはじめ地方行財政の全般に責任をもつ中央行政機関であり,公職選挙制度,消防制度をも担当する。旧内務省の系譜に属する。内務省は,第2次大戦後,行政民主化を求める連合軍側の占領政策により解体され,その機能は,国家公安委員会(警察庁),建設省,総理府,地方財政委員会,全国選挙管理委員会等に分割された。…
…事実,73年末現在の事業所数は,電信,鉄道をはじめ,長崎,兵庫,赤羽の各製作所,佐渡,生野,三池,大葛,小坂の各鉱山など多数にのぼり,投下された財政資金も1870年11月~73年12月の間に1137万円余(同期間歳入総額の8%)に及んだ。そのうえ73年11月に新設された内務省も,民業育成という新しい見地に立って各種の工場や試験場(富岡製糸場,堺紡績所,内藤新宿試験場,下総牧羊場など)を継承ないし新設し,また北海道開拓使(1869年8月設置)も75年ころから農牧場や工場(真駒内牧牛場,札幌緬羊場,札幌麦酒醸造所など)を相次いで開設した。その結果70年代末には,工部省系の鉱山,鉄道,造船所などの大企業群のほか,内務省,開拓使の経営する多数の模範工場や農牧場,試験場が各地に出現することになったのである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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