日本史学者。徳島県出身。1896年帝国大学(現,東京大学)文科大学国史科卒業。99年に日本歴史地理研究会(後に日本歴史地理学会と改称)を組織し,雑誌《歴史地理》を発行した。1901年に文部省の図書審査官,ついで編集官となって,国定教科書の編纂・検定を行ったが,南北朝正閏問題の責任を問われて11年に休職となる。1909年に平城京の研究,法隆寺再建論その他の学位論文によって文学博士となる。13年京都帝国大学専任講師,20年に同大教授となったが,24年に辞任し,東北帝国大学講師になる。この間,1919年に雑誌《民族と歴史》(後に《社会史研究》と改称)を発刊し,部落問題,福神,憑物(つきもの)などの特集号を出し,28年には雑誌《東北文化研究》を発刊して東北文化研究に新しい側面を開いた。喜田の学問分野はきわめて広く体系性をやや欠いているが,その中心は日本民族史に重点を置いた古代史の究明にあった。同時に現代の社会問題にも目を注ぎ,実地調査や実物研究を重んじる喜田の研究は,アカデミズムへの挑戦という史風に貫かれていた。斉東野人のペンネームを愛用し,ステッキ傘と手帳を入れた信玄袋を携行した喜田の姿は平民学者と称されるにふさわしいものであった。喜田の膨大な著作の一部は,《喜田貞吉著作集》全14巻(平凡社)として集成されている。
執筆者:村下 重夫
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明治・大正期の日本史学者 京都帝大文学部教授。
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歴史家。徳島県生まれ。帝国大学文科大学(東京大学文学部の前身)史学科卒業後、文部省に入り教科書の検定、執筆に従事したが、南北朝正閏(せいじゅん)論の責任をとって文部省を退き、その後、京都帝大教授、東北帝大講師を歴任した。研究分野は古代史を中心とするが、江戸時代の歴史地理、未解放部落の問題など多方面にわたり、文献史料のほか考古学や民俗学上の資料をも広く活用して論を進める点に特徴があった。また、建築史家の関野貞(せきのただし)の法隆寺再建論に反駁(はんばく)し、また考古学者の高橋健自(けんじ)と古墳の年代決定法に関して、考古学者の浜田耕作(こうさく)と古代民族について、考古学者の山内清男(やまのうちすがお)と石器時代の終末年代をめぐって論争するなど、多くの学者と論争を行ったことでも知られる。
[工藤雅樹]
『『喜田貞吉著作集』全14巻(1979~82・平凡社)』
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1871.5.24~1939.7.3
明治~昭和前期の日本史学者。徳島県出身。東大卒。文部省図書審査官,ついで文部編修として国定国史教科書の編修にあたったが,南北朝正閏問題がおこり職を退いた。のち京都帝国大学教授・東北帝国大学講師を歴任。日本古代史を中心に幅広い研究を行ったが,部落問題研究の基礎を築いたことや,関野貞との法隆寺再建・非再建論争などは特筆される。「喜田貞吉著作集」全14巻。
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… 飛鳥浄御原宮の位置については,飛鳥岡本宮の南とする上記の記事と,飛鳥寺とともに真神原に造営されたとする資料(《万葉集》巻二,199)が,大きな手がかりを提供する。喜田貞吉は,《帝都》(1915)で,旧飛鳥小学校付近を想定し,とくに,1902年に須弥山石と道祖神像が小字〈石神〉から発見されたこと,この付近に小字〈ミカド〉の存在することを重視した。現在では,〈石神〉地域が再調査され庭園遺構であること,旧飛鳥小学校の南からは漏刻(ろうこく)の遺構が検出され,両者がともに密接な関係にあることが判明し,その時期も7世紀中葉すぎで,飛鳥浄御原宮よりも少し古い時期のものである。…
…この説は,林屋辰三郎などによって唱えられ,ことに継体の死後,安閑・宣化という,いわば〈畿外勢力〉と,欽明に代表される〈畿内勢力〉の対立抗争があり,2王朝が一時併存したとする主張によって裏づけられた。この説をさかのぼれば,喜田貞吉らによって,継体・欽明紀の年紀の錯簡が論ぜられ,継体の没年辛亥年(531)の翌年が,欽明1年の壬子年(532)であり,安閑・宣化の在位期間はなくなるという文献批判から発しているといえよう。しかし,この王朝交替論には異論も多く,皇位継承を父系のみでなく,母系を加えた双系によって見れば,単純な征服王朝論は成立しないとする説がつよい。…
…古墳は盛土をもち,横穴は盛土がないが,ともに古墳時代の墓であることを,坪井正五郎らがまず認めたのである。つぎに古墳に古墓を対比して,両者をあわせて古墳墓とよんだのは喜田貞吉(きたさだきち)(1871‐1939)である。古墳は古墳時代のものであり,古墓はそれ以後のものとしたのである。…
…また同年,民俗学者の柳田国男が《山荘太夫考(さんしようだゆうこう)》を発表して,散所の芸能民について述べたのも,歴史的関心をたかめる一助となったとみられる。これらを受けて,19年には歴史学者の喜田貞吉が雑誌《民族と歴史》に〈特殊部落研究号〉を編み,みずから研究成果を発表して,歴史的探究に先鞭をつけた。ついで昭和期に入り,39年には森末義彰が《散所考》を発表し,これによって本格的な研究が軌道にのった。…
… 個別の都市や特定のカテゴリーに属する都市の変遷が取り上げられることも村落にみられない特色である。それらの研究としては喜田貞吉の平城京などの研究をまとめた《帝都》(1915),藤田元春の《平安京変遷史》(1930),小野均の《近世城下町の研究》(1928),大井重二郎の《上代の帝都》(1944),藤岡謙二郎の《国府》(1969),豊田武の《日本の近世都市》(1952),矢守一彦の《幕藩社会の地域構造》(1970)などがある。最近では計量地理学を導入した都市研究も多くなってきている。…
…窮地に立った桂首相は藤沢代議士に教科書の改訂を約し決着をはかった。これをうけて小松原英太郎文相は教科書の使用を禁止し,その改訂を指示するとともに,執筆者の喜田貞吉文部省編修官を休職にした。改訂教科書では〈南北朝〉の項が〈吉野朝〉に変えられ,天皇の歴代表から北朝が除かれた。…
…第2の時期は日韓併合(1910)後で,同祖論は朝鮮人の日本人化を促す論理として焼き直された。当時の同祖論者喜田貞吉は,朝鮮人は〈早く一般国民に同化して,同じく天皇陛下の忠良なる臣民とならねばならぬ。是れ啻(ただ)に彼等自身の幸福なるのみならず,彼等の遠祖の遺風を顕彰する所以(ゆえん)である〉と述べている。…
…この説は明治以降,足立康らによって継承された。これに対して喜田貞吉は,現在の橿原市四分町にある鷺巣神社の北方で,醍醐町の長谷田土壇の地を宮跡の地とし,大論争が展開された。1934年12月から43年8月にかけて,日本古文化研究所(黒板勝美所長)が足立康を主任として高殿町一帯を発掘し,大宮土壇が藤原宮の大極殿の跡であること,その南で十二堂を配した朝堂院の全貌を明らかにする画期的な成果をあげ,藤原宮の所在地が確定した。…
…同伽藍が日本最古の建造物であることから,建築史,美術史,日本史,考古学の諸家によって19世紀末から半世紀にわたって論争された。すでに早く1899年黒川真頼(まより)(1829‐1906)と小杉榲邨(すぎむら)(1834‐1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(708‐715)に再建したものという説を唱えたが,1905年関野貞(ただす)(1867‐1935)と平子鐸嶺(たくれい)(1877‐1911)が非再建説,喜田貞吉(1871‐1939)が再建説をそれぞれ主張して第1次論争が行われた。非再建説は飛鳥,白鳳,天平と変遷する建築様式論に基礎をおくが,特に西院伽藍建造の使用尺度が大化以前の高麗(こま)尺であるという関野の尺度論が重要な論拠となった。…
※「喜田貞吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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