平林町(読み)ひらばやしまち

日本歴史地名大系 「平林町」の解説

平林町
ひらばやしまち

[現在地名]神林村平林

あら川の右岸要害ようがい(二八一メートル)西麓にある。南東葛籠山つづらやま村・興屋こうや村、北西宿田やずた村に接する。中世は色部氏の居城平林城が要害山にあり、館が西の当地方面に向かって設けられていた。天文年間(一五三二―五五)のものと推定される年未詳壬月三日の脇河吉定書状写(「古案記録草案」所収文書)に「ひらはやし」とみえる。天正―慶長(一五七三―一六一五)頃成立の色部氏年中行事(色部文書)には「平林の下町より上り物の事」として「一、鯖十さし、一、昆布十は、一、にしん壱れん、一、塩引弐丁、一、御一さうもん一具、一、同御ひほかわ一ぐ、一、御おひ一筋、一、かみあふきそへ上申候。此すへハいちもたち出、しやうはいもとゝのい候ハヽ、此分よりハ過上たるへく候」とあり、物流の集散地であった様子がうかがわれる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「平林 上」とみえ、要害山西麓の松林の中に垣壁をめぐらした館が描かれる。近世は村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、万延元年(一八六〇)村上藩領に復し、文久二年(一八六二)再び幕府領となり、その後会津藩領となった。正保国絵図には「平林門前村 百五十石余」と記される。延享三年(一七四六)の巡見使案内帳(大滝正輔氏蔵)によれば反別二四町三畝余、うち田七町四反余・見取田九畝余・見取畑一町一反三畝余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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