会津街道(読み)あいづかいどう

日本歴史地名大系 「会津街道」の解説

会津街道
あいづかいどう

沼田城下より大原おおはら(現利根郡利根村)戸倉とくら(現同郡片品村)を経、三平さんぺい峠を越えて陸奥国に入り、沼山ぬまやま峠から檜枝岐ひのえまた(現福島県南会津郡檜枝岐村)から南山みなみやま御蔵入地の村々を通って会津若松に至る。道程はおおむね現在の国道一二〇号から四〇一号に同じで、福島県に入る。追貝おつかい(現利根村)では現山田郡大間々おおまま町に至る大間々街道に連絡した。史料上では会津道・会津裏道などと記され、土地の者は「オーカン(往還)」とよんでいた。また現利根郡白沢しらさわ上古語父原田かみここぶはらだから花咲はなさく峠・千貫せんがん峠・赤倉あかくら峠などを越えて花咲(現片品村)を経て戸倉に至る別路もあった。

加沢記」によると、整備される以前の戸倉から尾瀬おぜに至る道は戸倉越と称していた。

会津街道
あいづかいどう

新発田しばた城下から会津若松を経て、奥州街道白河しらかわ(現福島県白河市)へ達する近世の脇往還。佐渡産出金の江戸輸送に指定された佐州三路の一。白河街道・若松わかまつ街道ともよばれた。「越後名寄」による近世の街道筋は、新発田五十公野いじみの米蔵よねくら山内やまうち赤谷あかだに(現新発田市)綱木つなぎ新谷あらや行地ゆくじ(現東蒲原郡三川村)を経て津川つがわ(現同郡津川町)に至り、津川から若松城下まで一六里とある。津川から先は天満てんまん村・焼山やけやま福取ふくとり八田やつだ(現津川町)から鳥井とりい峠を越え陸奥国に入った。新発田から江戸まで一一日を要した。津川は会津藩内交通の西端にあたり津川船道の湊でもあった。

会津街道
あいづかいどう

米沢城下から檜原ひばら峠を越えて会津若松へ至る街道。若松街道・檜原街道とも称し、柳津道(米府鹿子)ともいった。当街道の開かれた年代は不明だが、西行も当街道を通って出羽国を訪れたといわれる(米府鹿子)。会津文化・京文化を摂取した重要な役割を果した古道であったと考えられる。上杉氏入部前にも米沢城が会津の支城であったことから当街道は重視され、慶長三年(一五九八)の綱木番所掟(寄合帳)が残っている。同六年上杉氏と家臣団が米沢入りしたのも当街道であった。なお会津への道は天正一三年(一五八五)伊達政宗が開いたという米沢からおお(標高一一五〇メートル)を越えて会津の喜多方きたかたに通ずる八谷峠やたにとうげ(現在国道一二一号が開通)があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「会津街道」の意味・わかりやすい解説

会津街道
あいづかいどう

栃木県,福島県境の山王峠から南会津町下郷町会津若松市喜多方市を経て山形県境の大峠にかかる道路。全長 111km。会津若松市以北を米沢街道以南会津西街道とも呼ぶ。ほぼ国道 121号線にあたる。

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世界大百科事典(旧版)内の会津街道の言及

【佐渡路】より

…その産出量はとくに江戸初期に多く,幕府の重要な財源であったので,大量の金銀輸送,幕府役人等の通行のため重視される街道となった。佐渡路には中山道追分宿から分かれて出雲崎(いずもざき)に出る北国街道,中山道高崎宿から分かれて寺泊(てらどまり)に出る三国街道,奥州道中白河宿で分かれて新潟に出る会津街道の3道があって,出雲崎,寺泊,新潟が渡海場に当てられていた。佐渡御金荷は小木港から出雲崎に海上輸送されたあと北国街道を陸送されたので,北国街道は江戸初期に合宿継や寄馬制など特別な継立体制が確立した。…

※「会津街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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