平泉寺村(読み)へいせんじむら

日本歴史地名大系 「平泉寺村」の解説

平泉寺村
へいせんじむら

[現在地名]勝山市平泉寺町〈赤尾あかお岡横江おかよこえ・平泉寺〉

女神おながみ川扇状地の扇頂部に立地し、北東には三頭みつがしら山より尾根伝いに法恩寺ほうおんじ山頂に至る道が通じる。西は猪野いの村を経て大野街道に通じる。古くより、白山登拝の越前馬場として発展した平泉寺の寺内に居住していた人々が、天正二年(一五七四)四月の一向一揆による平泉寺焼亡後形成した村落である。

慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。慶長一一年頃の越前国絵図に「平泉寺」として高二五一三・八六石が記される。正保郷帳では村高二千五七三石余でうち田方一千九九五石余・畠方五七八石余。この村高のうち二〇〇石は白山社領と付記されている。正保四年村に隠田があると福井藩に伊右衛門が訴え、検地が実施された。字別にいっせいに行われ、非田三六〇石余、片掛かたかけ一三一石余、やすいち三〇二石余、北谷きただに四九五石余、屋敷やしき七六石余、南車坂みなみくるまざか四九二石余、北車坂六八〇石余、東赤尾一六八石余、西赤尾一九五石余で、村高は二九〇三・六五二石となった。その結果、朱印地二九・四〇九石、村高三〇〇・三八三石の打出しとなった(平泉寺史要)。この検地は「高きくろも御に当り、或はあぜさへ御座候程で、山田の不作地迄も御帳に付申候」ほどの厳しいものであった(同書)。年貢率は幕府領時代の貞享四年は二ツ七分八厘、元禄元年は二ツ五分であったのが、勝山藩領となってから引上げられて、同一〇年に三ツ一分定免となり、以後廃藩まで三ツ余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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