日本歴史地名大系 「平泉寺村」の解説
平泉寺村
へいせんじむら
慶長五年(一六〇〇)から福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領で福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府直轄領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領となった。慶長一一年頃の越前国絵図に「平泉寺」として高二五一三・八六石が記される。正保郷帳では村高二千五七三石余でうち田方一千九九五石余・畠方五七八石余。この村高のうち二〇〇石は白山社領と付記されている。正保四年村に隠田があると福井藩に伊右衛門が訴え、検地が実施された。字別にいっせいに行われ、非田三六〇石余、に当り、或はあぜさへ御座候程で、山田の不作地迄も御帳に付申候」ほどの厳しいものであった(同書)。年貢率は幕府領時代の貞享四年は二ツ七分八厘、元禄元年は二ツ五分であったのが、勝山藩領となってから引上げられて、同一〇年に三ツ一分定免となり、以後廃藩まで三ツ余であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報