福井藩(読み)ふくいはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

福井藩
ふくいはん

初め北庄 (きたのしょう) 藩といい,のち越前藩とも称した。江戸時代,越前国 (福井県) 福井地方を領有した藩。戦国時代は朝倉氏の所領であったが,朝倉氏が一乗谷で滅亡後は柴田勝家が支配した。柴田氏も賤ヶ岳の戦いによって滅亡し,代って天正 11 (1583) 年丹羽長秀,同 13年堀秀政の所領となり,さらに慶長3 (98) 年小早川秀秋,同4年青木一矩の所領となった。関ヶ原の戦い後の同6年徳川家康の次男結城秀康が 67万石で入封,同9年結城姓を松平と改姓。元和9 (1623) 年2代忠直が発狂して除封され,代って越後 (新潟県) 高田から忠直の弟忠昌が 52万 5000石で入封し,北庄を福井と改称した。正保2 (45) 年7万 5000石を2子に分与。貞享3 (86) 年6代綱昌の発狂により除封されたが,宗族のため昌親が 25万石で新封され,7代藩主となった。この石高半減は藩政を大きく動揺させたが,14代斉承,16代慶永 (よしなが) らの名君が藩政の改革に成功して危機を乗越えた。この間2度加封があり,文政1 (1818) 年以後 32万石。特に慶永は橋本左内横井小楠由利公正らの人材を登用し,開国から大政奉還までの間,公武合体派の中心として,さらには最初の政事総裁職として幕政に寄与した。次の 17代茂昭 (もちあき) のとき廃藩置県にいたった。家門,江戸城大広間詰。

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百科事典マイペディアの解説

福井藩【ふくいはん】

北ノ庄(きたのしょう)藩・越前(えちぜん)藩とも。越前国福井に藩庁をおいた親藩。初代藩主は徳川家康第2子結城秀康(ひでやす)(のち松平氏)で領知高68万石。3代忠昌後は分家創出などで約25万石〜52万5000石。幕末の藩主慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))は横井小楠(しょうなん)を招き藩政改革を成功させ,また藩校明道(めいどう)館の学監に橋本左内(さない)を就け洋学重視の教育により人材を育成,幕政においては公武合体を推進した。
→関連項目足羽越前国北庄藩札府中結城氏

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

ふくいはん【福井藩】

江戸時代越前(えちぜん)国足羽(あすわ)郡福井(現、福井県 福井市)に藩庁をおいた親藩(しんぱん)。藩校は正義堂、明道館(めいどうかん)。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後、徳川家康(とくがわいえやす)の次男結城秀康(ゆうきひでやす)に越前1国68万石が与えられ成立した。秀康は柴田勝家(かついえ)が築いた北庄(きたのしょう)城を移転改築して居城とし、結城姓を松平に復し、越前松平家を興した。秀康は藩政の基礎を固め、その長男忠直(ただなお)も鳥羽野(とばの)開拓などで治績をあげたが、秀康の弟秀忠が将軍になったことから幕府に反抗的となり、23年(元和(げんな)9)に忠直の乱行を理由に豊後(ぶんご)国に配流された。翌24年(寛永(かんえい)1)、秀康の次男松平忠昌(ただまさ)が50万石で継承、北庄を福居(のちに福井)と改めた。このとき、越前は丸岡藩大野藩勝山藩(越前国)など複数の藩に分割され、その後の相続の混乱もあって、福井藩は所領を大幅に減らし、86年(貞享(じょうきょう)3)には25万石まで減封となった。その後32万石まで復して明治維新に至った。御三卿(ごさんきょう)の田安徳川家から養子に入った幕末の藩主松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))は、橋本左内(さない)らを登用、また肥後(ひご)国 熊本藩から横井小楠(しょうなん)を招いて藩政改革を行った。幕政でも一橋(ひとつばし)派として大老井伊直弼(なおすけ)と対立、安政の大獄で隠居させられたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として活躍した。1871年(明治4)の廃藩置県により、福井県、足羽県、敦賀(つるが)県、石川県を経て、81年に再置の福井県に編入された。◇越前藩、北庄藩ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

ふくいはん【福井藩】

越前国(福井県)足羽郡福井に藩庁を置いた親藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,徳川家康の次男結城秀康が越前一国68万石を与えられて成立した。秀康は下総国結城から商工人を伴って入国しているが,城下町の地子を免除し,税制や交通を整備するなど領国経営の基礎を固めた。長男松平忠直も久世騒動といわれる御家騒動を切り抜け,鳥羽野を開拓するなどの治績をあげたが,23年(元和9)乱行を理由に豊後国に配流された。ただし伝えられる忠直の乱行は多く潤色で,すべてが史実とは認められない。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

福井藩
ふくいはん

越前(えちぜん)国福井(福井市)地方を領有した藩。親藩。越前藩、北庄(きたのしょう)藩ともいう。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いののち、徳川家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が68万石を賜って成立。その後忠直(ただなお)、忠昌(ただまさ)(50万5000石)、光通(みつみち)(42万石)、昌親(まさちか)(47万5000石)、綱昌(つなまさ)、吉品(よしのり)(昌親再封、25万石)、吉邦(よしくに)、宗昌(むねまさ)(30万石)、宗矩(むねのり)、重昌(しげまさ)、重富(しげとみ)、治好(はるよし)(32万石)、斉承(なりつぐ)、斉善(なりさわ)、慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))、茂昭(もちあき)と続いて明治維新に至る。姓は秀康に諸説あるが、忠直以降松平(まつだいら)を称し、名も将軍の偏諱(へんき)を賜った。秀康・忠直父子は優れた武将で、秀康は藩政の基礎を固め、忠直も祖父が「日本の樊噌(はんかい)」とその功を賞したほどであったが、秀康の弟徳川秀忠(ひでただ)が将軍になったこともあってか、ともに奇矯のふるまいが目だち、忠直は1623年(元和9)豊後(ぶんご)国(大分県)に配流された。家光の将軍就任に先だち、2代にわたる不遜(ふそん)を責め禍根を断ったものとみられる。ただし「酒色に耽(ふけ)り無辜(むこ)を殺戮(さつりく)」したと伝えられる忠直の乱行なるものは、多く潤色であり、そのまま史実とは認められず、鳥羽野(とばの)開拓などみるべき治績も多い。重富の代1768年(明和5)には、2万人が参加したとされる有名な城下打毀(うちこわし)が起こった。1838年(天保9)襲封した慶永は、橋本左内(さない)、横井小楠(しょうなん)(熊本藩)、中根雪江(せっこう)などのブレーンに恵まれて藩政改革に成功した。さらに幕政でも一橋(ひとつばし)派として井伊大老と対立し、敗れて「隠居急度慎(いんきょきっとつつしみ)」とされたが、1862年(文久2)政事総裁職として復帰し、公武合体路線を主張して活躍した。産業は、早くから越前奉書の名をもつ五箇(ごか)の和紙が盛んで、藩の専売品となっていた。また絹織物は幕末期下級武士の内職として行われた。藩校は正義堂、さらに明道館と称した。1871年(明治4)廃藩、福井、足羽(あすわ)、敦賀(つるが)、石川県を経て、81年再置の福井県に入る。[隼田嘉彦]
『『福井県史 2』(1921・福井県) ▽『福井県史(新編) 資料編 3・4』(1982、84・福井県)』

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世界大百科事典内の福井藩の言及

【越前国】より

…82年本能寺の変後,勝家は羽柴秀吉と対立し,翌年近江の賤ヶ岳に敗れ,勝家側に立った府中の前田利家は秀吉に下り,勝家は北ノ庄城に退いて,お市の方(信長の妹)とともに自刃して滅亡した。【松原 信之】
【近世】
 勝家のあとは,丹羽,堀,青木氏と続いたが,1600年(慶長5)関ヶ原の戦の後,北ノ庄の青木一矩はじめ織田秀雄,大谷吉継らの改易,堀尾吉晴の転封により旧領主はすべて越前を去り,徳川家康の次男結城秀康が越前一国68万石で入封し福井藩が成立した。24年(寛永1)福井藩が50万5000石余となったため,大野,勝山,木本(このもと),丸岡の諸藩が創出され,また敦賀郡が小浜京極氏に割かれ,以後小浜藩領となった。…

【藩政改革】より

…このようにして,姫路藩は73万両といわれた藩債も,天保期に完済の見込みがたてられていたという。 これに対して,伝統的な土着産業を基礎におき,絹業の育成に努めたのは福井藩である。まず姫路藩の河合寸翁と比較される指導者三岡八郎(のちの由利公正)の存在と,彼を支える横井小楠,さらにその師橋本左内に及ぶ活眼の人脈にふれておかなくてはなるまい。…

【松平氏】より

…2代忠直は松平氏を称し,暴政を行ったという理由で23年(元和9)配流され,秀康次男忠昌が福井52万5000石をついで3代となる。忠昌の子孫は領地高の変遷はあるが福井に住し,1818年(文政1)以降32万石を領有した(福井藩)。一方忠直の長男光長は,父配流のとき越後高田25万石を与えられたが,越後騒動の結果1681年(天和1)所領を没収された。…

【松平慶永】より

…幕末の福井藩主。号は春岳(嶽)。…

【蓑虫騒動】より

…参加者が顔に墨やすすを塗り,破れ蓑や破れ笠を着けていたことから,藩側は侮蔑と恐怖をもって,百姓側は誇りと自覚をもって,それぞれ蓑虫と称したと思われる。敦賀郡を除く越前(福井県嶺北地方)では,(1)1748年(寛延1)福井城下,(2)68年(明和5)福井城下,(3)79年(安永8)丸岡藩領,(4)86年(天明6)勝山藩領,(5)1811年(文化8)勝山藩領,(6)28年(文政11)勝山藩領(他領へ波及),(7)33年(天保4)福井藩領などの一揆,打毀に蓑虫の言葉が使われ,ほとんど百姓側の勝利に終わった。 このうち(2)は参加者2万人といわれ,越前で最大のものである。…

【横井小楠】より

…54年(安政1)兄の死によって家督を相続したが,実学党の名まえが広く知れわたったにもかかわらず,肥後では不遇な一藩士にとどまった。 58年,福井藩主の賓師として招かれ,福井に出向いた。おりからの安政の大獄で藩主松平慶永(よしなが)は隠居謹慎させられたが,小楠は儒教の民富論,交易論によって藩政を指導し,農民の積極的参加を原動力とする生糸の大量輸出によって巨大な利益を挙げた。…

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