広田 弘毅
ヒロタ コウキ
- 肩書
- 第32代首相,外相
- 別名
- 幼名=丈太郎
- 生年月日
- 明治11年2月14日
- 出生地
- 福岡県福岡市鍛冶町
- 学歴
- 東京帝大法科大学政治学科〔明治38年〕卒
- 経歴
- 玄洋社と接して国権論に影響される。明治39年外務省に入省、外交官補となり、翌年北京へ赴任、外交官としての生活を開始する。大正12年欧米局長、15年オランダ公使、昭和5年ソ連大使を経て、8年から斎藤内閣及び岡田内閣の外相。中国に“広田三原則”を提示するなど大陸における権益拡大につとめた。11年岡田内閣のあとを受け組閣し、首相となる。“庶政一新”をスローガンに、軍部大臣現役制の復活、日独防共協定の調印、国防増強の“馬場財政”などを推進。12年1月寺内陸相と浜田国松の“腹切り問答”後総辞職し、貴院議員(勅選)。同年6月第1次近衛内閣の外相、15年米内内閣の参議。東条英機を首相に推すなど軍事路線を進めた。敗戦後、東京裁判でA級戦犯として、文官中唯一人絞首刑を宣告され、23年12月23日処刑された。
- 没年月日
- 昭和23年12月23日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
広田 弘毅
ヒロタ コウキ
大正・昭和期の外交官,政治家 首相;外相。
- 生年
- 明治11(1878)年2月14日
- 没年
- 昭和23(1948)年12月23日
- 出生地
- 福岡県福岡市鍛冶町
- 別名
- 幼名=丈太郎
- 学歴〔年〕
- 東京帝大法科大学政治学科〔明治38年〕卒
- 経歴
- 玄洋社と接して国権論に影響される。明治39年外務省に入省、外交官補となり、翌年北京へ赴任、外交官としての生活を開始する。大正12年欧米局長、15年オランダ公使、昭和5年ソ連大使を経て、8年から斎藤内閣及び岡田内閣の外相。中国に“広田三原則”を提示するなど大陸における権益拡大につとめた。11年岡田内閣のあとを受け組閣し、首相となる。“庶政一新”をスローガンに、軍部大臣現役制の復活、日独防共協定の調印、国防増強の“馬場財政”などを推進。12年1月寺内陸相と浜田国松の“腹切り問答”後総辞職し、貴院議員(勅選)。同年6月第1次近衛内閣の外相、15年米内内閣の参議。東条英機を首相に推すなど軍事路線を進めた。敗戦後、東京裁判でA級戦犯として、文官中唯一人絞首刑を宣告され、23年12月23日処刑された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
広田 弘毅 (ひろた こうき)
生年月日:1878年2月14日
大正時代;昭和時代の外交官;政治家。総理大臣
1948年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報