浜田国松(読み)ハマダクニマツ

デジタル大辞泉 「浜田国松」の意味・読み・例文・類語

はまだ‐くにまつ【浜田国松】

[1868~1939]政治家三重の生まれ。護憲運動参加。のち、政友会入党。昭和9年(1934)衆議院議長に就任。同12年、施政方針質問の際に軍部批判寺内寿一陸相と「腹切り問答」を行った。

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精選版 日本国語大辞典 「浜田国松」の意味・読み・例文・類語

はまだ‐くにまつ【浜田国松】

  1. 政治家。三重県出身。護憲運動に参加。のち、政友会に入党。昭和九年(一九三四)衆議院議長に就任。同一二年、施政方針質問の際に軍部を批判、寺内寿一陸相と「腹切り問答」を行なった。慶応四~昭和一二年(一八六八‐一九三七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜田国松」の意味・わかりやすい解説

浜田国松
はまだくにまつ
(1868―1939)

明治・大正・昭和期の政党政治家。号は孤松。慶応(けいおう)4年3月10日、伊勢(いせ)国(三重県)に生まれる。1891年(明治24)東京法学院中央大学の前身)を卒業し弁護士となった。1904年(明治37)から衆議院議員に12回当選。国民党、革新倶楽部(くらぶ)などに所属、1925年(大正14)犬養毅(いぬかいつよし)らとともに政友会に入った。1934~1936年(昭和9~11)衆議院議長を務めた。第一次、第二次の護憲運動を通して硬骨の政治家として知られた。二・二六事件以後軍部の政治干渉は増大するばかりであったが、1937年1月の衆議院本会議において、軍部の政治干与を攻撃する演説を行った。答弁にたった寺内寿一(てらうちひさいち)陸相がこれを軍人を侮辱するものであるときめつけたのに対して、「軍隊を侮辱したことばがあったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ」と詰め寄って、政党と軍部の正面衝突を引き起こした(腹切り問答)。このため広田弘毅(こうき)内閣は、解散を要求する陸相とそれに反対する政党出身閣僚の対立で同月23日総辞職に追い込まれた。昭和14年9月6日死去。

[芳井研一]

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「浜田国松」の解説

浜田 国松
ハマダ クニマツ


肩書
衆院議長,政友会総務

別名
号=孤松

生年月日
慶応4年3月10日(1868年)

出生地
伊勢国宇治山田(現・三重県伊勢市)

学歴
東京法学院(現・中央大学)〔明治24年〕卒

経歴
弁護士から政界に入り、明治37年以来衆院議員に当選12回。立憲国民党、革新倶楽部、立憲政友会に所属。この間、大正6年衆院副議長、14年政友会総務、昭和2年田中義一内閣の司法政務次官、9〜11年衆院議長をつとめた。同じ三重2区の“憲政の神様”尾崎行雄とともに、清廉な政治家として憲政の擁護に尽力。自由主義的雄弁家として知られ、12年第70議会で寺内寿一陸相に腹切りを賭けて発言の誠実さを問うた、“腹切り問答”で一躍有名になった。

没年月日
昭和14年9月6日

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20世紀日本人名事典 「浜田国松」の解説

浜田 国松
ハマダ クニマツ

明治〜昭和期の政治家 衆院議長;政友会総務。



生年
慶応4年3月10日(1868年)

没年
昭和14(1939)年9月6日

出生地
伊勢国宇治山田(現・三重県伊勢市)

別名
号=孤松

学歴〔年〕
東京法学院(現・中央大学)〔明治24年〕卒

経歴
弁護士から政界に入り、明治37年以来衆院議員に当選12回。立憲国民党、革新倶楽部、立憲政友会に所属。この間、大正6年衆院副議長、14年政友会総務、昭和2年田中義一内閣の司法政務次官、9〜11年衆院議長を務めた。同じ三重2区の“憲政の神様”尾崎行雄とともに、清廉な政治家として憲政の擁護に尽力。自由主義的雄弁家として知られ、12年第70議会で寺内寿一陸相に腹切りを賭けて発言の誠実さを問うた、“腹切り問答”で一躍有名になった。

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改訂新版 世界大百科事典 「浜田国松」の意味・わかりやすい解説

浜田国松 (はまだくにまつ)
生没年:1868-1939(明治1-昭和14)

政治家。三重に生まれる。1891年東京法学院(現,中央大学)を卒業して,弁護士となる。宇治山田市議会議長を経て,1904年第9回総選挙で初当選,以後当選12回。甲辰俱楽部,猶興会,又新(ゆうしん)会に属し,立憲国民党結成に参加,以後犬養毅と歩みを共にし25年立憲政友会に入る。27年田中義一内閣で司法政務次官に就任。しだいに雄弁家として知られ,帝人事件を検察ファッショと批判するなど,しばしば代表質問に立ち,二・二六事件後の第70議会(1937年1月)で軍部の政治関与を批判し,寺内寿一陸相と腹切り問答を展開したことは有名である。この間,第67,68議会(1934-36)で衆議院議長を務めた。
執筆者:

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浜田国松」の解説

浜田国松
はまだくにまつ

1868.3.10~1939.9.6

明治~昭和前期の政治家。三重県出身。東京法学院(現,中央大学)卒。地方議会議員をへて,1904年(明治37)衆議院議員となる。立憲国民党・革新倶楽部などをへて,25年(大正14)以後立憲政友会に属し,政友会総務,衆議院副議長,田中義一内閣の司法政務次官,衆議院議長を務めた。37年(昭和12)腹切り問答事件をおこし,広田内閣退陣の原因をつくった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浜田国松」の解説

浜田国松 はまだ-くにまつ

1868-1939 明治-昭和時代前期の政治家。
慶応4年3月10日生まれ。弁護士をへて明治37年衆議院議員(当選12回,政友会)。昭和9年衆議院議長。12年本会議で軍部の政治介入を批判し,寺内寿一(ひさいち)陸相との腹切り問答で広田内閣を総辞職においこんだ。昭和14年9月6日死去。72歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。東京法学院(現中央大)卒。号は孤松。

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367日誕生日大事典 「浜田国松」の解説

浜田 国松 (はまだ くにまつ)

生年月日:1868年3月10日
明治時代-昭和時代の弁護士;政治家。衆議院議員・議長
1939年没

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