日本歴史地名大系 「庄川町」の解説 庄川町しようがわまち 富山県:東礪波郡庄川町面積:三〇・七四平方キロ県西部、礪波平野の南東部にあり、北は砺波(となみ)市、西は井波(いなみ)町、南は利賀(とが)村、東は婦負(ねい)郡山田(やまだ)村。南東端に標高九八七メートルの牛(うし)岳があり、そこから北東に連なる低い山地や丘は呉羽山(くれはやま)丘陵の基部となっている。南西部の山は高清水(たかしようず)山地の北東端を占める。中央部を貫流する庄川は八乙女(やおとめ)山と牛岳の山間を抜け、金屋(かなや)付近から平野部に出て庄川扇状地(礪波平野)を形成する。同川左岸を南から北西に国道一五六号が通り、南北に主要地方道新湊―庄川線・高岡―庄川線、東西に城端(じようはな)―庄川線が走る。昭和四七年(一九七二)に廃止されるまで西部に加越線が乗入れていた。現在はバスが運行されている。庄川西岸の金屋には縄文時代中期の集落跡松原(まつばら)遺跡がある。律令制下では礪波郡に属した。「延喜式」神名帳にみえる礪波郡「雄神(オカミノ)神社」は庄の雄神(しようのおがみ)神社に比定され、天平宝字三年(七五九)一一月一四日の礪波郡石粟村官施入田地図(奈良国立博物館蔵)などによれば、奈良東大寺領石粟(いしあわ)庄内に同社の神田があった。また同日付の礪波郡伊加流伎開田地図(正倉院蔵)に「木波道」がみえ、木波(きなみ)は庄の段(だん)の城跡の麓一帯を指すと推定される(享保年間「庄金剛寺村古城写」金子文書など)。奈良時代には木波の北に東大寺領井山(いやま)庄、その北に伊加流伎(いかるぎ)野地、さらにその北に石粟庄があったとして、井山庄を三谷(みたに)から庄川の流路を含む地域一帯に比定する説もある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by