康暦の政変(読み)こうりゃくのせいへん

改訂新版 世界大百科事典 「康暦の政変」の意味・わかりやすい解説

康暦の政変 (こうりゃくのせいへん)

1379年(天授5・康暦1)室町幕府の管領細川頼之追放された政変。頼之は若年の将軍足利義満をたすけて10余年間幕政を主導したが,斯波義将以下諸大名の多くは頼之に対する反感を強め,1378年(天授4・永和4)頼之の養子頼元を主将とする紀伊・和泉南朝軍の追討も失敗した。義満は反細川派の山名義理・氏清兄弟を紀伊・和泉守護として南軍を討たせ,ついで79年2月同じく反細川派の斯波義将,土岐頼康に大和の乱の鎮定を命じた。しかし義将は帰京し,頼康と京極高秀はそれぞれ本国美濃・近江に下って挙兵した。義満は土岐・京極追討を指令したが,義将らの願いをいれてまもなく彼らを赦免した。そこで同年閏4月彼らは義将とともに幕府囲み,頼之追放を義満に強要し,頼之は義満の命により一族・被官とともに四国に下り,ついで義満は義将を管領とした。この政変の結果,義満の幕政主導権が確立し,また政所執事も二階堂氏から伊勢氏に替わり,幕府の政治体制がいっそう整えられた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の康暦の政変の言及

【南北朝時代】より

…しかし管領頼之の幕府権力強化策は細川一族の重用,守護家の内紛への介入,五山統制の強化,南都北嶺の抑圧などを伴ったため,頼之の専権に対する主要守護大名諸氏の反感が強まり,ついに1379年(天授5∥康暦1)斯波義将,土岐頼康,京極高秀らの諸大名は頼之罷免を要求して挙兵し,鎌倉御所氏満もはるかに呼応して西上を図ったので,将軍義満は頼之を罷免し,義将を管領とした。 この康暦の政変は,幕府の政治体制がいっそう充実する契機となった。政所執事が二階堂氏から伊勢氏に代わるとともに,従来支配系統の分かれていた幕府直轄領(公方御料所)は政所の一括管理下に入り,かつ朝廷・山門などが分掌していた洛中の雑務沙汰(動産の売買・貸借等に関する訴訟)の裁判権も1386年(元中3∥至徳3)までに幕府政所の一括審理下に入った。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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