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斯波義将 しば よしまさ

美術人名辞典の解説

斯波義将

南北朝・室町時代の武将。高経の四男。通称は勘解由小路殿・玉堂法名は道称。将軍足利義詮・義満・義持の三代にわたり管領を三度つとめ、越前・信濃国などの守護となる。細川頼之と対立し、四国に追放した。故義満への太上天皇尊号を辞退させるなど、堅実な運営で幕政に貢献し、和歌・雅楽等にも秀でた。子弟訓戒のため『竹馬抄』を著わす。応永17年(1410)歿、60才。

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百科事典マイペディアの解説

斯波義将【しばよしまさ】

室町幕府の管領(かんれい)。〈よしゆき〉とも。越前・越中(えっちゅう)の守護。高経の子。13歳で父の代りに幕府執事(管領)となる。のち失脚したが,1379年管領細川頼之を排斥して再任された。
→関連項目足利義詮斯波高経

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

斯波義将 しば-よしゆき

しば-よしまさ

斯波義将 しば-よしまさ

1350-1410 南北朝-室町時代の武将。
観応(かんのう)元=正平(しょうへい)5年生まれ。斯波高経(たかつね)の4男。父の後見のもとに13歳で将軍足利義詮(よしあきら)の執事,越中守護となる。康暦(こうりゃく)元=天授5年(1379)細川頼之(よりゆき)を追放し,みずから管領(かんれい)となって将軍足利義満(よしみつ)を補佐。その後も2度管領となり,越前(えちぜん),信濃(しなの)守護などをつとめた。禅宗に帰依し,和歌,絵画に通じた。応永17年5月7日死去。61歳。名は「よしゆき」ともよむ。
【格言など】ただ人の心は,つかいようによりてよくもなり,あしくもなり,利根(りこん)にも鈍にもなるべきなり(「竹馬抄」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

斯波義将

没年:応永17.5.7(1410.6.9)
生年:観応1/正平5(1350)
南北朝・室町時代の武将。高経の4男。治部大輔,左衛門佐,右衛門督。一般には「よしまさ」と読まれる。京都の邸宅があった場所から勘解由小路殿と呼ばれ,父にならって玉堂とも称された。応永2(1395)年将軍足利義満に従って出家し道将と号し,雪渓とも自称した。貞治1/正平17(1362)年,父の強い後援で13歳にして将軍足利義詮の執事になったが,異母兄氏頼の舅で幕府内で強大な権力を握っていた佐々木道誉の反発を招き,貞治5/正平21年高経・義将父子は追放されて越前(福井県)に逃げ帰った。しかし,翌年高経の死後許されて義将は越中(富山県)守護に復帰し,前守護桃井氏一族の抵抗を鎮圧して政治的地位を回復した。 やがて管領細川頼之と対立を深め,康暦1/天授5(1379)年には頼之を追って自ら管領の職についた。次いで越前守護畠山基国と守護職を交換して本国ともいえる越前を回復している。明徳2/元中8(1391)年いったん管領職を辞するが,その後も2度管領を務めた。また応永12(1405)年からの嫡子義教,嫡孫義淳の管領在任中もこれを後見しており,父高経の庇護下にあった初任期を除いても合計22年間にわたり幕政の中枢を担ったことになる。後継者を決めずに義満が死んだのちは,すでに将軍についていた足利義持の地位を守って義満の寵愛した足利義嗣を退けたり,故義満に太上天皇号が贈られたときにはこれを辞退させるなど,堅実,沈着な運営で幕府の充実に貢献した。加賀(石川県),信濃(長野県),尾張(愛知県),遠江(静岡県)を分国に加えるなど(信濃は応永9年幕府料国となる),斯波氏全盛期をもたらした。禅宗に深い関心を寄せたほか連歌,和歌にも長じ,『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』に合計13首が入る。また雅楽を豊原信秋から伝授されたり,絵も描くなど多芸多才ぶりを発揮した。『柳原家記録』は時の人が義将の死を「当世武門の重人也。一家の愁傷か」と悼んだと伝えている。

(河村昭一)

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世界大百科事典 第2版の解説

しばよしまさ【斯波義将】

1350‐1410(正平5∥観応1‐応永17)
南北朝・室町初期の武将。斯波高経の四男。官途治部大輔・左衛門佐・右衛門督,道号玉堂,法号道将,別号雪渓。1362年(正平17∥貞治1)13歳で幕府執事となり,父高経の後見により将軍足利義詮を補佐し,また越中守護となった。66年政変により高経とともに越前に退き,翌年高経の病没により赦免されて越中守護に復した。79年(天授5∥康暦1)管領細川頼之排斥の中心となり,将軍義満から管領に任ぜられ,畠山基国と分国を交換して越前守護となった。

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大辞林 第三版の解説

しばよしまさ【斯波義将】

1350~1410) 室町時代の武将。管領として幕府の制度を整備し、幕政の基礎を固めた。教訓書「竹馬抄」がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

斯波義将
しばよしまさ

[生]正平5=観応1(1350)
[没]応永17(1410).5.7.
室町幕府管領 (在職第1期 1362~66,第2期 79~91,第3期 93~98) 。高経の子。父の後見で 13歳のとき執事となったが,専横が原因で失脚し,越前に逃れた。のち許され,以後細川氏と交互に管領となり,政敵細川頼之とともに,室町幕府の基礎確立に貢献。応永2 (95) 年足利義満出家にならい入道,道将と号した。将軍足利義持を補佐し,義満への太上天皇贈位を辞退させたことは有名。『竹馬抄』著作説は疑問とされている。

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世界大百科事典内の斯波義将の言及

【康暦の政変】より

…1379年(天授5∥康暦1)室町幕府の管領細川頼之が追放された政変。頼之は若年の将軍足利義満をたすけて10余年間幕政を主導したが,斯波義将以下諸大名の多くは頼之に対する反感を強め,1378年(天授4∥永和4)頼之の養子頼元を主将とする紀伊・和泉南朝軍の追討も失敗した。義満は反細川派の山名義理・氏清兄弟を紀伊・和泉守護として南軍を討たせ,ついで79年2月同じく反細川派の斯波義将,土岐頼康に大和の乱の鎮定を命じた。…

【斯波氏】より

…その曾孫高経(たかつね)(斯波高経)は足利尊氏に従い新田義貞を討って越前,若狭などの守護となる。高経の子義将(よしまさ)(斯波義将)は幕府の重鎮として前後3回管領を務め,細川頼之とともに義満を助けて幕府の基礎を確立した。また尾張,遠江,信濃,若狭,越前,越中,能登,佐渡の8ヵ国の守護を歴任し,斯波氏の最盛期を創出した。…

※「斯波義将」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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