斯波義将(読み)シバヨシマサ

デジタル大辞泉 「斯波義将」の意味・読み・例文・類語

しば‐よしまさ【斯波義将】

[1350~1410]室町前期の武将室町幕府管領足利義詮あしかがよしあきら義満義持の3代の将軍に仕え、幕府基礎固めに尽力した。

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精選版 日本国語大辞典 「斯波義将」の意味・読み・例文・類語

しば‐よしまさ【斯波義将】

  1. 室町時代の武将。正しくは「よしゆき」か。高経の四男。越前越中などの守護。将軍足利義詮(よしあきら)・義満・義持のもとで執事・管領となり、室町幕府の基礎確立に功績があった。法名道将。観応元=正平五~応永一七年(一三五〇‐一四一〇

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朝日日本歴史人物事典 「斯波義将」の解説

斯波義将

没年:応永17.5.7(1410.6.9)
生年:観応1/正平5(1350)
南北朝・室町時代の武将。高経の4男。治部大輔,左衛門佐,右衛門督。一般には「よしまさ」と読まれる。京都の邸宅があった場所から勘解由小路殿と呼ばれ,父にならって玉堂とも称された。応永2(1395)年将軍足利義満に従って出家し道将と号し,雪渓とも自称した。貞治1/正平17(1362)年,父の強い後援で13歳にして将軍足利義詮の執事になったが,異母兄氏頼の舅で幕府内で強大な権力を握っていた佐々木道誉の反発を招き,貞治5/正平21年高経・義将父子は追放されて越前(福井県)に逃げ帰った。しかし,翌年高経の死後許されて義将は越中(富山県)守護に復帰し,前守護桃井氏一族の抵抗を鎮圧して政治的地位を回復した。 やがて管領細川頼之と対立を深め,康暦1/天授5(1379)年には頼之を追って自ら管領の職についた。次いで越前守護畠山基国と守護職を交換して本国ともいえる越前を回復している。明徳2/元中8(1391)年いったん管領職を辞するが,その後も2度管領を務めた。また応永12(1405)年からの嫡子義教,嫡孫義淳の管領在任中もこれを後見しており,父高経の庇護下にあった初任期を除いても合計22年間にわたり幕政の中枢を担ったことになる。後継者を決めずに義満が死んだのちは,すでに将軍についていた足利義持の地位を守って義満の寵愛した足利義嗣を退けたり,故義満に太上天皇号が贈られたときにはこれを辞退させるなど,堅実,沈着な運営で幕府の充実に貢献した。加賀(石川県),信濃(長野県),尾張(愛知県),遠江(静岡県)を分国に加えるなど(信濃は応永9年幕府料国となる),斯波氏全盛期をもたらした。禅宗に深い関心を寄せたほか連歌,和歌にも長じ,『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』に合計13首が入る。また雅楽を豊原信秋から伝授されたり,絵も描くなど多芸多才ぶりを発揮した。『柳原家記録』は時の人が義将の死を「当世武門の重人也。一家の愁傷か」と悼んだと伝えている。

(河村昭一)

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改訂新版 世界大百科事典 「斯波義将」の意味・わかりやすい解説

斯波義将 (しばよしまさ)
生没年:1350-1410(正平5・観応1-応永17)

南北朝・室町初期の武将。斯波高経の四男。官途治部大輔・左衛門佐・右衛門督,道号玉堂,法号道将,別号雪渓。1362年(正平17・貞治1)13歳で幕府執事となり,父高経の後見により将軍足利義詮を補佐し,また越中守護となった。66年政変により高経とともに越前に退き,翌年高経の病没により赦免されて越中守護に復した。79年(天授5・康暦1)管領細川頼之排斥の中心となり,将軍義満から管領に任ぜられ,畠山基国と分国を交換して越前守護となった。この義将の管領就任を機として,幕府政所の権限強化,洛中の屋地をつかさどる地方(じかた)の設置などが行われ,また五山以下の禅宗の支配が従来の直接統制から,春屋妙葩(みようは)を僧禄に任じこれを通じて行う間接統制に変化したが,これらは管領義将の補佐によるものとみられる。義将は91年(元中8・明徳2)いったん管領を辞し,翌々年再任して98年(応永5)まで在任し,その後も嫡子義教(義重),嫡孫義淳を後見し,幕府第一の宿老として義満・義持に仕えた。1408年義満が没すると朝廷が太上天皇の追号を贈ろうとしたのを義持に辞退させたことなど,穏当な意見で幕府政治の安定に寄与した。また晩年,斯波氏の分国は越前,尾張,遠江3ヵ国となり,斯波氏がこの3ヵ国の守護を世襲する基も定まった。平素禅宗をあつく信じ,歌道・古典などをたしなんだ。ただし彼が著したとされる子弟教訓書《竹馬抄》は,義将に仮託されたものとみられる。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斯波義将」の意味・わかりやすい解説

斯波義将(しばよしまさ)
しばよしまさ
(1350―1410)

南北朝~室町初期の管領(かんれい)。名前の訓は正しくは「よしゆき」。治部大輔(じぶのたいふ)、左衛門佐(さえもんのすけ)、右衛門督(うえもんのかみ)。法号道将(どうしょう)、別号雪渓(せっけい)。高経(たかつね)の四男。1362年(正平17・貞治1)13歳で父高経の後見により幕府執事(しつじ)となり、また越中(えっちゅう)守護となる。66年高経とともに越前(えちぜん)に逃れ、翌年高経の病没により許されて越中守護に復し、桃井(もものい)氏追討に功あり、79年(天授5・康暦1)管領細川頼之(ほそかわよりゆき)排斥の中心となり、かわって将軍義満(よしみつ)から管領に任ぜられ、越前守護に移る。義満を助けて、洛中(らくちゅう)支配の充実、僧禄(そうろく)の任命による禅宗統制の間接化などを実施した。91年(元中8・明徳2)管領を辞したが翌々年再任、98年(応永5)まで在任。その後も管領となった子義教(よしのり)(初め義重(よししげ))を後見し、1409年(応永16)短期間ながら三たび管領となる。謹厳な性格で、幕府第一の宿老としてしばしば穏当な意見を述べ、幕府政治の安定に貢献した。義満の没後朝廷が義満に贈ろうとした太上(だいじょう)天皇の追号を、義持(よしもち)に辞退させたことなどが知られる。また斯波氏が越前、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)3国の守護となる基を開いた。禅宗に帰依(きえ)し、歌道、古典に精進して教養を積んだ。ただし子弟教訓書『竹馬抄(ちくばしょう)』は義将に仮託したものとみられる。応永(おうえい)17年5月7日没。

[小川 信]


斯波義将(しばよしゆき)
しばよしゆき

斯波義将

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百科事典マイペディア 「斯波義将」の意味・わかりやすい解説

斯波義将【しばよしまさ】

室町幕府の管領(かんれい)。〈よしゆき〉とも。越前・越中(えっちゅう)の守護。高経の子。13歳で父の代りに幕府執事(管領)となる。のち失脚したが,1379年管領細川頼之を排斥して再任された。将軍足利義満を補佐して,幕府権力の確立に貢献。1393年再々任され管領となる。1399年大内義弘の反乱を鎮圧した。
→関連項目足利義詮斯波高経

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「斯波義将」の解説

斯波義将
しばよしゆき

1350~1410.5.7

「よしまさ」とも。南北朝期~室町中期の武将。高経の四男。治部大輔・左衛門佐・右衛門督。勘解由小路(かでのこうじ)殿と称される。法名道将。1362年(貞治元・正平17)父の後見で幕府執事となり,越中国守護を兼任。66年,父と越前へ退去したが,翌年ゆるされて上洛,越中国守護に復帰。79年(康暦元・天授5)管領細川頼之を排し,かわって管領に就任。まもなく畠山基国(もとくに)と越中・越前の守護職を交換した。明徳の乱後管領を辞任するが,のち再任。その後も嫡子義教・嫡孫義淳(よしあつ)を後見して将軍足利義持を補佐し,3代義満への太上法皇号追贈を辞退させた。1409年(応永16)にも外交上の理由から2カ月間管領を勤める。翌年病没。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斯波義将」の解説

斯波義将 しば-よしまさ

1350-1410 南北朝-室町時代の武将。
観応(かんのう)元=正平(しょうへい)5年生まれ。斯波高経(たかつね)の4男。父の後見のもとに13歳で将軍足利義詮(よしあきら)の執事,越中守護となる。康暦(こうりゃく)元=天授5年(1379)細川頼之(よりゆき)を追放し,みずから管領(かんれい)となって将軍足利義満(よしみつ)を補佐。その後も2度管領となり,越前(えちぜん),信濃(しなの)守護などをつとめた。禅宗に帰依し,和歌,絵画に通じた。応永17年5月7日死去。61歳。名は「よしゆき」ともよむ。
【格言など】ただ人の心は,つかいようによりてよくもなり,あしくもなり,利根(りこん)にも鈍にもなるべきなり(「竹馬抄」)

斯波義将 しば-よしゆき

しば-よしまさ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斯波義将」の意味・わかりやすい解説

斯波義将
しばよしまさ

[生]正平5=観応1(1350)
[没]応永17(1410).5.7.
室町幕府管領 (在職第1期 1362~66,第2期 79~91,第3期 93~98) 。高経の子。父の後見で 13歳のとき執事となったが,専横が原因で失脚し,越前に逃れた。のち許され,以後細川氏と交互に管領となり,政敵細川頼之とともに,室町幕府の基礎確立に貢献。応永2 (95) 年足利義満出家にならい入道,道将と号した。将軍足利義持を補佐し,義満への太上天皇贈位を辞退させたことは有名。『竹馬抄』著作説は疑問とされている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「斯波義将」の解説

斯波義将
しばよしまさ

1350〜1410
室町初期の武将
高経の4男。1379年細川頼之 (よりゆき) を退けて管領となって以来,将軍足利義満・義持の側近として幕政にあたり,幕府の基礎を固めた。応永の乱(1399)にも功あり,越前・越中・能登・信濃などの守護を兼ねた。

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世界大百科事典(旧版)内の斯波義将の言及

【康暦の政変】より

…1379年(天授5∥康暦1)室町幕府の管領細川頼之が追放された政変。頼之は若年の将軍足利義満をたすけて10余年間幕政を主導したが,斯波義将以下諸大名の多くは頼之に対する反感を強め,1378年(天授4∥永和4)頼之の養子頼元を主将とする紀伊・和泉南朝軍の追討も失敗した。義満は反細川派の山名義理・氏清兄弟を紀伊・和泉守護として南軍を討たせ,ついで79年2月同じく反細川派の斯波義将,土岐頼康に大和の乱の鎮定を命じた。…

【斯波氏】より

…その曾孫高経(たかつね)(斯波高経)は足利尊氏に従い新田義貞を討って越前,若狭などの守護となる。高経の子義将(よしまさ)(斯波義将)は幕府の重鎮として前後3回管領を務め,細川頼之とともに義満を助けて幕府の基礎を確立した。また尾張,遠江,信濃,若狭,越前,越中,能登,佐渡の8ヵ国の守護を歴任し,斯波氏の最盛期を創出した。…

※「斯波義将」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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