朝日日本歴史人物事典 「土岐頼康」の解説
土岐頼康
生年:文保2(1318)
南北朝時代の武将。美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)・伊勢(三重県)3カ国守護。頼清(頼宗)の子。右馬頭,刑部少輔,大膳大夫。康永1/興国3(1342)年叔父頼遠の刑死後,美濃守護を継承,以後45年間在職する。早くから足利尊氏・義詮父子に従って歴戦し,尊氏・直義兄弟が争った観応1/正平5(1350)年の観応の擾乱では尊氏・義詮側で活躍,翌年,尾張守護を兼帯した。貞治年間(1362~68)に伊勢守護も兼帯するが,貞治5/正平21年,斯波高経が失脚し細川頼之が管領になったとき,これを失う。しかし康暦1/天授5(1379)年,斯波義将と結んで頼之排斥の首謀者となり,一時追討を受けそうになったものの,頼之の失脚(康暦の政変)により伊勢守護職を再度手中にした。観応のころ,厚見郡革手城を築いて新守護所とし,それまでの守護所厚見郡長森城には弟直氏を入れ,大野郡揖斐城を築いて弟(兄ともいう)頼雄を入れたという。また,文和2/正平8年,義詮が後光厳天皇を奉じて京都を脱出した際には,美濃池田郡小島に天皇の頓宮を営んだ。頼康には実子がなかったため,頼雄の子康行を養嗣子にしていたが,頼康と頼雄,直氏,頼世(頼忠)ら兄弟の結束は固く,これを中心に一族庶流を結集し,家紋の桔梗を冠して桔梗一揆と呼ばれる一族一揆を軍事力の要とした。政略,武略に秀でるとともに,京都の邸では歌会を催し,二条良基邸をたびたび訪れるなど,風雅の道もよくし,勅撰集にも多く入集している。
(谷口研語)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報