細川頼之(読み)ホソカワヨリユキ

デジタル大辞泉 「細川頼之」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐よりゆき〔ほそかは‐〕【細川頼之】

[1329~1392]南北朝時代の武将。室町幕府管領かんれいとして足利義満を助け、幕政の安定をはかった。のち、一時失脚したが、中国・四国地方の平定に活躍して、再び幕政に参加。

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精選版 日本国語大辞典 「細川頼之」の意味・読み・例文・類語

ほそかわ‐よりゆき【細川頼之】

  1. 南北朝・室町初期の武将。細川頼春の子。足利尊氏に従って武功をあげ、管領となって三代将軍義満を補佐。守護大名と対立して辞任したが、後年、再び幕府に迎えられた。元徳元~明徳三年(一三二九‐九二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細川頼之」の意味・わかりやすい解説

細川頼之
ほそかわよりゆき
(1329―1392)

南北朝時代の武将。室町幕府の管領(かんれい)。通称弥九郎(やくろう)。右馬助(うまのすけ)、右馬頭(うまのかみ)、武蔵守(むさしのかみ)。法号常久(じょうきゅう)、道号桂岩(けいがん)。阿波(あわ)守護・侍所頭人(さむらいどころとうにん)細川頼春(よりはる)の子。1350年(正平5・観応1)から翌年にかけて父の名代(みょうだい)として阿波にあり南朝方と戦う。52年(正平7・文和1)頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぎ、翌々年伊予(いよ)守護を兼ね、畿内(きない)、四国で南朝方と連戦したのち、56年(正平11・延文1)中国管領となって足利直冬(あしかがただふゆ)党を追討し、62年(正平17・貞治1)従兄弟(いとこ)の前幕府執事(しつじ)細川清氏(きようじ)を幕命により讃岐(さぬき)に討ち取り、一族の分立を淘汰(とうた)して讃岐・土佐守護を兼ねた。67年将軍義詮(よしあきら)の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満(よしみつ)を助け12年間在任。この間に半済(はんぜい)法の整備、朝廷(北朝)の段銭(たんせん)催徴権などの接収、河内(かわち)、伊勢(いせ)、越中(えっちゅう)などの南軍拠点攻撃、鎮西(ちんぜい)管領(九州探題)今川了俊(りょうしゅん)の発遣、義満の官位昇進や幕府新第(しんてい)(花の御所)の造営による将軍家の権威増進、五山以下仏教界の風儀粛正、統制強化などに努め、幕府権力の確立に力を尽くす。そのかたわら、弟頼元(よりもと)以下の一族を侍所頭人、諸国守護などに起用して守護大名細川氏興隆の基礎を築いた。やがて斯波義将(しばよしまさ)らの諸大名の反発を招き、79年(天授5・康暦1)失脚し、剃髪(ていはつ)して四国に下ったが、一族、被官を結集して分国の統治に専念した。89年(元中6・康応1)義満の瀬戸内巡歴に協力、翌年備後(びんご)守護となって山名時煕(やまなときひろ)の反乱を討ち、91年(元中8・明徳2)管領に就任した頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳(めいとく)の乱の鎮定に殊功を収めた。翌92年3月2日病没。墓所は洛西(らくせい)地蔵院に現存する。性篤実で義満の信任厚く、和歌、連歌(れんが)、詩文を愛好し、禅宗を厚く信じ、京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝院・宝冠寺を建立し、土佐の吸江庵(ぎゅうこうあん)などを再興した。

[小川 信]


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改訂新版 世界大百科事典 「細川頼之」の意味・わかりやすい解説

細川頼之 (ほそかわよりゆき)
生没年:1329-92(元徳1-元中9・明徳3)

南北朝時代の武将。頼春の子。幼名弥九郎。はじめ武蔵守,のち相模守。父頼春とともに足利尊氏に従い南朝軍と戦う。1362年(正平17・貞治1)同族細川清氏が南朝方に降り讃岐白峰城に拠って足利義詮(よしあきら)に背いたのを攻め滅ぼし,四国を平定した。67年義詮の死去に際し,幼少の義満の補佐を託され,管領に任ぜられ,これまで足利氏の家宰的性格しか与えられていなかった執事職を管領という幕府政治の中枢的な職に高め,幕政を左右した。69年(正平24・応安2)南朝方にあって講和を主張し孤立していた楠木正儀を誘降し,河内,和泉の守護職を与えて南朝勢力の切り崩しをはかった。こうした頼之の積極的な南朝攻勢に対し,これを非難する空気が諸大名の間に生まれ,71年(建徳2・応安4)には楠木正儀の河内攻略に諸大名が協力しないことを理由に管領職を辞して西芳寺に隠遁しようとしたため,義満がみずから西芳寺に赴いて慰留するという事態にまでなった。このような頼之に反感をもつ土岐頼康,斯波義将ら有力諸大名とのあつれきはしだいに深まり,また義満にもうとまれて,79年(天授5・康暦1)管領職を解任され,一族を率いて領国讃岐に帰り,剃髪して常久と称し,四国,中国経営に専念した。

 89年(元中6・康応1)義満の厳島参詣の途上,参会して旧情をあたため,翌90年備後が乱れるに及び,その守護としてこれを平定する。91年(元中8・明徳2)ふたたび義満によって京都に召還され,養子頼元を管領となし,みずからも義満の政務を補佐し,その年の暮れに明徳の乱が生じると諸大名とともに鎮圧にあたった。
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朝日日本歴史人物事典 「細川頼之」の解説

細川頼之

没年:明徳3/元中9.3.2(1392.3.25)
生年:元徳1(1329)
南北朝時代の北朝の武将。頼春の子。観応の擾乱では父と共に足利尊氏に従い直冬党と戦う。文和1/正平7(1352)年,父の討死により阿波守護を継ぎ,伊予守護をも兼ねる。延文1/正平11年には中国管領として中国・四国の直冬党鎮圧に当たる。貞治1/正平17年,南朝に降った細川清氏を讃岐白峰城(香川県坂出市)に攻め滅ぼし,新たに讃岐・土佐の守護を兼ね四国管領となった。貞治6/正平22年,室町幕府将軍足利義詮 の死去に際しては,幼少の義満の補佐を託され幕府管領となる。頼之は,これまで足利氏の家宰的存在であった執事職を管領として幕府政治の中枢にまで高め,半済法を施行するなど幕府権力の拡充に努めた。応安2/正平24年,南朝方にあって講和を主張し孤立していた楠木正儀を降誘し,河内・和泉守護に任じて南朝の切り崩しを謀ったが,正儀優遇策を快く思わない諸大名は正儀の河内平定に協力しなかった。そのため頼之は管領職を辞し隠遁しようとしたが,このときは義満自ら西芳寺に赴いてこれを慰留した。しかしその後も有力大名との軋轢は深まり,自立を図る義満にも疎まれ,康暦1/天授5(1379)年,管領職を斯波義将にとって代わられる(康暦の政変)。頼之は「人生五十功無きを愧づ,花木春過ぎて夏已に中ば,満室の蒼蠅掃へども尽し難し…」との詩を残して領国讃岐に帰り,しばらくは治政に専念する。しかし,のちにこれを悔いた義満が,厳島参詣の際に讃岐に立ち寄る一方,頼之も乗船百余艘を提供し,参会して変わらぬ忠節ぶりを示した。再び京都に召還された頼之は,養子頼元を管領とし自らも義満の政治を補佐した。明徳の乱鎮圧後の3月,病死。歌,連歌の素養もあり『新千載和歌集』他に13首を残す。<参考文献>小川信『細川頼之』

(小林保夫)

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百科事典マイペディア 「細川頼之」の意味・わかりやすい解説

細川頼之【ほそかわよりゆき】

南北朝時代の武将。頼春の子。讃岐(さぬき)・伊予・土佐などの守護。動乱期に足利尊氏に従った。1362年細川清氏を讃岐で破り四国を平定。1367年足利義詮(よしあきら)の遺命により幼少の将軍義満を補佐し管領(かんれい)となった。1379年諸将の排撃を受けて失脚。のち再び幕政に参与。
→関連項目楠木正儀執事斯波義将細川氏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細川頼之」の意味・わかりやすい解説

細川頼之
ほそかわよりゆき

[生]元徳1(1329)
[没]元中9=明徳3(1392).3.2. 京都?
室町幕府管領 (在職 1367~79) 。阿波,讃岐,土佐,淡路の守護。頼春の子。中国管領として正平 17=貞治1 (62) 年幕府から離反したいとこ清氏を讃岐に滅ぼし,細川一族を統制,四国を平定した。正平 22=貞治6 (67) 年将軍足利義詮 (よしあきら) の委託を受けて管領となり,幼少の将軍義満の補佐役となり,以後 12年間事実上幕政を主宰した。正平 23=応安1 (68) 年武蔵守,3年後相模守となった。しかし彼の専横なやり方に,斯波氏をはじめ諸大名が反発し,康暦の政変 (79) で失脚,四国へ下った。元中8=明徳2 (91) 年政界へ復帰,養子の管領頼元の後見となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「細川頼之」の解説

細川頼之
ほそかわよりゆき

1329~92.3.2

南北朝期の武将。頼春の嫡子。弥九郎・右馬助。右馬頭・武蔵守。法名常久。父の戦死後阿波国守護を継承,のち伊予国守護も兼任。1356年(延文元・正平11)以降中国管領として足利直冬党と戦い,62年(貞治元・正平17)南朝に降った細川清氏を讃岐で滅ぼした。これらの功で讃岐・土佐両国守護を兼任。67年将軍足利義詮(よしあきら)の遺命で管領となり,幼少の将軍義満を補佐した。以後12年間在任して幕府の体制確立に努めたが,康暦の政変で失脚,四国へ下る。のち伊予国守護職の放棄を条件にゆるされ,90年(明徳元・元中7)備後国守護に任じられて山名時熙(ときひろ)を追討し,翌年上洛。管領の養嗣子頼元を後見し,明徳の乱を鎮定。この間一族の領国は8カ国に及び,幕府内の細川氏の地歩は確立した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細川頼之」の解説

細川頼之 ほそかわ-よりゆき

1329-1392 南北朝時代の武将。
元徳元年生まれ。細川頼春の子。細川頼元の兄。足利尊氏(たかうじ)にしたがって南朝方とたたかう。貞治(じょうじ)6=正平(しょうへい)22年幕府管領(かんれい)となり,幼少の将軍足利義満を補佐した。のち諸将にうとまれて失脚。晩年復帰し,明徳の乱の鎮定につくした。明徳3=元中9年3月2日死去。64歳。三河(愛知県)出身。通称は弥九郎。
【格言など】人生五十功無きを愧(は)ず 花木春過ぎ夏すでに中ばなり(「海南行」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「細川頼之」の解説

細川頼之
ほそかわよりゆき

1329〜92
南北朝時代の武将
足利尊氏に従って功をたて,阿波・讃岐の守護となる。1367年2代将軍義詮 (よしあきら) の遺命で管領となり,3代将軍義満を補佐,楠木正儀 (まさのり) の吉野攻撃を援助して,南朝勢力に大打撃を与えた。のち諸将とあわず一時讃岐に帰ったが,'91年明徳の乱で山名氏清を諸将とともに討ち,室町政権の基礎を確立した。

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世界大百科事典(旧版)内の細川頼之の言及

【康暦の政変】より

…1379年(天授5∥康暦1)室町幕府の管領細川頼之が追放された政変。頼之は若年の将軍足利義満をたすけて10余年間幕政を主導したが,斯波義将以下諸大名の多くは頼之に対する反感を強め,1378年(天授4∥永和4)頼之の養子頼元を主将とする紀伊・和泉南朝軍の追討も失敗した。…

【南北朝時代】より

… 同年,義詮は多年対立した弟の鎌倉御所基氏とも和解した。しかし義詮は幼少の嫡子義満に家督を譲って病没し,遺命を受けた細川頼之が将軍義満を後見して政務を代行した。これを機会として,それまで将軍―執事―守護あるいは将軍―侍所―守護,将軍―引付頭人―守護などと多岐に分かれていた幕命の伝達系統が,ほぼ将軍―管領―守護に統一され,管領制が成立したと判断される。…

【南北朝内乱】より

…しかし61年(正平16∥康安1)細川清氏は義詮に追放されて南朝に下り,楠木勢とともに同年末京都に突入した。これは南軍最後の入京となり,反撃された清氏は翌62年(正平17∥貞治1)四国に走り,従兄弟の中国管領細川頼之にたおされた。義詮は旧直義党斯波高経の子義将を幕府執事とし,鎌倉御所足利基氏も旧直義党上杉憲顕を招いて関東管領とし,ここに直義党の反発はようやくおさまり,南党大内弘世と直冬党山名時氏も63年幕府に帰順したので,九州以外の南朝方は再び低調となった。…

【備後国】より

…この観応の擾乱(じようらん)期の52年(正平7∥文和1)10月,山内氏では惣領通継代道円ほか10名が一族一揆を結び,直冬方として一族内の結束を固めた。56年(正平11∥延文1)3月幕府は細川頼有を備後守護に任じ,同年6月にはその兄細川頼之(よりゆき)を中国管領として派遣した。このころから直冬勢力の衰退が顕著で,直冬方として結束を固めた山内氏惣領通継も頼之に帰服し,63年ごろまでに直冬方勢力の掃討は終わり,中国探題は廃止された。…

※「細川頼之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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