弥高寺跡(読み)やたかじあと

日本歴史地名大系 「弥高寺跡」の解説

弥高寺跡
やたかじあと

[現在地名]伊吹町弥高

弥高やたか集落背後の弥高いやたか山上にある。弥高護国寺ともいい、地元では弥高百坊といい伝え、往時の隆盛ぶりを物語る。現在はかつての院坊のうち悉地しつち院のみが上野うえのに残る。跡地は県指定史跡。

応永九年(一四〇二)書写の伊吹山弥高寺縁起(大原観音寺文書)に「称徳天王(ママ)御願三周沙門之建立也」「天平神護年中建立」とあり、年未詳(徳治三年以後)九月一八日の弥高護国寺衆徒言上書案(同文書)には「天智天皇御願、七高第三之霊場伊福貴山之本寺也」と記される。他の三護国寺(太平・長尾・観音)と同じく沙門三修が開基したと伝える伊吹山護国寺(伊吹山寺)から分立したものと考えられるが、鎌倉後期においては、弥高寺が本寺と主張するだけの位置を占めていたようである。徳治三年(一三〇八)四月一〇日の伊福貴山弥高太平両寺衆僧和与状(同文書)は、当寺と太平たいへい(現伊吹町)の間で長く続いた本末争いに終止符を打ったものだが、その和解七条件の一つに伊福貴いぶき(現同町伊夫岐神社)の一切経会所作人一三人の分担が決められており、他の三寺が三人ずつなのに対し当寺は四人が勤めることになっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「弥高寺跡」の解説

やたかじあと【弥高寺跡】


京極氏遺跡(きょうごくしいせき)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報