京極氏(読み)きょうごくうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「京極氏」の意味・わかりやすい解説

京極氏
きょうごくうじ

近江(おうみ)の宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏一流守護大名。四職(ししき)家の一つ。鎌倉中期、佐々木信綱(のぶつな)の三男泰綱(やすつな)が六角(ろっかく)氏を称したのに対し、四男氏信(うじのぶ)は京都の京極高辻(たかつじ)に館(やかた)を構え京極氏を称した。鎌倉期は在京御家人(ごけにん)として六波羅(ろくはら)に仕え、また代々検非違使(けびいし)に任命された。南北朝内乱期に高氏(たかうじ)(導誉(どうよ))が足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って活躍し、佐々木惣領職(そうりょうしき)を得、近江・若狭(わかさ)・上総(かずさ)・出雲(いずも)・飛騨(ひだ)の守護となり、京極氏を中興した。子の高秀(たかひで)も将軍義詮(よしあきら)に仕え、評定衆(ひょうじょうしゅう)・侍所所司(さむらいどころしょし)に任ぜられた。その子の高詮(たかのり)は義満(よしみつ)に仕え、明徳(めいとく)の乱(1391)の功により出雲・隠岐(おき)の守護職を、応永(おうえい)の乱(1399)で石見(いわみ)の守護職を与えられ、また評定衆として、さらに侍所所司となる四職家としての家格を確立した。その後、高光(たかみつ)は将軍義持(よしもち)に、高数(たかかず)は義教(よしのり)に仕えたが、高数は嘉吉(かきつ)の乱(1441)で赤松氏に殺された。その後は持清(もちきよ)が継ぎ、侍所所司として、15世期中葉の京都の治安を長く掌握した。応仁(おうにん)の乱(1467~77)では東軍の細川方に属し、西軍に属した六角氏と佐々木惣領職・近江守護職を争ったが、その死後、一族に内紛が起こり、一方で六角氏の圧迫や尼子(あまご)・多賀(たが)氏の反抗があり、高清以後は衰退し、16世紀中ごろには浅井氏の勢力下に入った。その後、高次(たかつぐ)が織田信長豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康に仕え、若狭小浜(おばま)藩主になり(高和(たかかず)の代に讃岐(さぬき)丸亀(まるがめ)藩に移封、のち多渡津(たどつ)藩を分出)、その弟高知(たかとも)も丹後(たんご)宮津藩主となった(のち但馬(たじま)豊岡(とよおか)藩・丹後峰山(みねやま)藩を分出)。

[宮島敬一]


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改訂新版 世界大百科事典 「京極氏」の意味・わかりやすい解説

京極氏 (きょうごくうじ)

鎌倉時代以来の武家。宇多源氏の近江佐々木氏の流れ。佐々木信綱の三男泰綱は京都六角東洞院に住して六角氏を称し近江国守護となり,四男氏信は京極高辻に住して京極氏を称した。京極氏は5代佐々木高氏(道誉)によって南北朝・室町期の隆盛の基が築かれた。高氏は元弘・建武の騒乱で足利尊氏の最も忠実な武将として活躍し,重用されてその勢いは惣領家六角氏をしのいだ。高氏の功により歴代室町幕府評定衆に列し,侍所所司の家格(四職)を得,孫高詮の後は飛驒・出雲・隠岐3国の守護職を相伝した。本拠の近江では高氏と持清のとき一国守護職を得た以外は,江北三郡(坂田,浅井,伊香)に特殊な権限をもつ分郡守護であった。応仁・文明の乱には,持清は細川勝元の東軍に属した。持清の死後,高清と政経の間の家督争い,六角氏との戦いなどで衰亡し,被官浅井氏台頭を招き,ついに浅井長政の代には完全に北近江の領国支配権を奪われた。一方,出雲・隠岐両国は支族の守護代尼子氏に奪われ,飛驒も隣国から侵略された。浅井氏滅亡後,高次と弟高知は豊臣秀吉を頼って再興し,高次は九州征伐,小田原征伐の功により近江八幡山2万8000石,大津6万石と進み,関ヶ原の戦には徳川方につき大津城を守り,西軍の包囲攻撃をうけついに城を開いて高野山に入ったが,のち徳川家康は高次の功を賞し,若狭小浜8万5000石および近江高島郡7000石を領した。その子忠高は出雲松江24万石余に転封され,死後嗣子なく収公されたが,とくに甥高和に播磨竜野6万石を与えられ,のち1658年(万治1)讃岐丸亀6万石に転封された。94年(元禄7)多度津1万石を分知した。一方,高知は近江蒲生郡に5000石を領し,のち信濃飯田6万石となり,ついで10万石に加増された。その後家康に属して功があり,丹後12万3000石を領し宮津城主となった。高知の後は,高広7万8000石,高三3万5000石(丹後田辺,孫高盛以後但馬豊岡),高通1万石(丹後峰山)と3子が分割相続したが,高広の子高国は66年(寛文6)罪科により改易された。維新後,高三流と高通流はいずれも子爵。
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百科事典マイペディア 「京極氏」の意味・わかりやすい解説

京極氏【きょうごくうじ】

宇多源氏。近江(おうみ)守護佐々木信綱の子氏信を祖とする。氏信は京都の京極高辻に居住して京極氏を称した。高氏(道誉)のとき足利氏に属して室町幕府創立に功を立て,近江のほか五ヵ所の守護を兼ね,子孫は侍所(さむらいどころ)所司に任じて四職(ししき)家の一つとなった。応仁・文明の乱後ふるわなかったが,高次が織田信長・豊臣秀吉に仕えて再興し,高次およびその一族は大津・松江・竜野・丸亀などの大名となって明治に至った。→佐々木高氏
→関連項目浅井氏小谷城甲良[町]六角氏

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「京極氏」の解説

京極氏
きょうごくし

中世近江国北半の守護大名,近世大名家。宇多源氏。佐々木信綱の四男氏信が京都京極高辻に屋敷を構え,京極氏と称したことに始まる。鎌倉時代,氏信・宗綱父子は評定衆・引付衆となり,地歩を築く。南北朝期,高氏(導誉(どうよ))は室町幕府創立に功があり,佐々木氏の惣領職を与えられ近江ほか5カ国の守護となった。のち四職家として活躍したが,内紛により応仁・文明の乱の頃から衰退。高次のとき,織田・豊臣氏に仕えて再び栄え,関ケ原の戦では東軍に属し,戦後若狭国小浜8万5000石を領した。弟の高知にも丹後国宮津12万3000石余が与えられた。その後高次の子忠高は出雲国松江藩主26万4000石余となったが急死。甥の高和に養子が認められ播磨国竜野6万石をへて讃岐国丸亀藩主。高知の子孫は,のち但馬国豊岡藩主1万5000石と丹後国峰山藩主1万1000石となる。維新後,いずれも子爵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「京極氏」の意味・わかりやすい解説

京極氏
きょうごくうじ

宇多源氏,近江佐々木氏の一流。室町幕府侍所所司の家柄で (→三管四職 ) ,出雲,隠岐,飛騨の守護となる。応仁の乱後ふるわず,高次の代に織田信長,豊臣秀吉に仕えて勢力を挽回したが,昔日の繁栄には及ばなかった。江戸時代は讃岐丸亀などの藩主として幕末にいたり,明治に入って子爵を授けられた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「京極氏」の解説

京極氏
きょうごくし

近江国(滋賀県)北部の守護大名で,室町幕府の四職 (ししき) 家の一つ
宇多源氏出身。近江国佐々木氏の嫡流で六角氏と同族。高氏のとき室町幕府創立に功をあげ,近江ほか5カ国の守護となる。高詮 (たかあきら) のとき,四職家の一つとなり権勢をふるう。応仁の乱(1467〜77)後衰えたが,高次が豊臣秀吉に仕え再興。江戸時代,大名として各地に転々と封じられ,明治に及んだ。

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世界大百科事典(旧版)内の京極氏の言及

【浅井氏】より

…出自については,三条公綱落胤説,物部守屋後裔説などがあるが,俗説と思われる。《江北記》によれば,江北の守護京極氏の根本被官の1家に数えられているが,南北朝・室町期においては目だった活動を示す史料がなく,おそらく浅井郡丁野郷(滋賀県東浅井郡湖北町)付近を本拠とした国人であったと思われる。応仁の乱ごろより活動が現れるが,勃興したのは亮政(すけまさ)のときで,京極氏の家督争いに乗じ,1525年(大永5)京極高清を本居小谷(おだに)城に迎え,主導権を握った。…

【近江国】より

…これが六角氏である。しかし南北朝時代になると,泰綱の弟氏信を祖とする京極氏が台頭した。とくに京極高氏(佐々木道誉)は足利尊氏を助けて室町幕府の創設に功績があり,京極氏は近江北部での強力な支配権を認められ,南部の六角氏と拮抗するようになった。…

【佐々木氏】より

…信綱の後はその子重綱,高信,泰綱,氏信を家祖として大原,高島,六角,京極の4家に分かれ,三男泰綱の六角氏が嫡家として近江守護職を相承した。しかし京極氏に高氏(佐々木道誉)が出ると,足利尊氏の信任を得てその地位を高め,京極氏は室町幕府の侍所を世襲して六角氏の勢威をしのぐに至った。のち六角氏は織田信長に滅ぼされ,京極氏も被官の浅井氏に抑えられて衰えたが,近世大名に取り立てられた。…

【佐々木高氏】より

…《太平記》いらい,佐々木道誉の名で知られる。京極氏は在京御家人として活躍し,京都高辻京極に邸宅を構えて家名とした。近江での本拠は北近江で,伊吹山麓の太平寺に荘園支配の政所(まんどころ)をおき,柏原にも邸館をおいていた。…

【侍所】より

…南北朝期の頭人は三浦・佐々木・土岐・佐竹・山名・赤松等の外様大名,細川・畠山・今川・斯波・一色等の足利一門,高・仁木等の足利被官が任ぜられ,幕府内の政争に連動して交替するが,応永(1394‐1428)初年からほぼ山名,京極(佐々木),赤松,一色のいわゆる四職(ししき)家に固定する。応仁の乱前約25年は京極氏が独占し,乱後は赤松氏がしばらく任ぜられるが,その被官浦上氏が所司代として実質的に活動する。応仁の乱までは,侍所頭人は将軍家御料国である山城の守護を兼任する場合が多い。…

【四職】より

…室町時代の武家の家格。三管領に次ぐ有力守護家のうち,侍所頭人(とうにん)を出した4家を指す。室町幕府の侍所は南北朝後期以降,主として山名,土岐,赤松,京極,畠山,一色の6家から交替で就任していたが,1398年(応永5)畠山氏が管領家に昇格した結果,残余の5家から頭人を出した。なお美濃守護土岐氏は1439年(永享11)以後侍所に補任された徴証がなく,また赤松氏も嘉吉の乱(1441)で没落したので,以後は京極,一色,山名の3家となり,実際に4家が恒常的に頭人を出した安定期間というのはなかった。…

【丹後国】より

…年貢高については,宮津藩は延宝年間(1673‐81)に平均3割高の延高をしたが,田辺・峰山藩は近世を通じて大きな石高の変動はなかった。宮津藩領は京極氏以降,天領―永井氏―天領―阿部氏―奥平氏―青山氏と支配が変遷したが,1759年(宝暦9)遠江の浜松より本庄氏が入部し,以来7代相ついで廃藩となった。田辺藩は1668年(寛文8)京極高盛が但馬豊岡へ転封のあとへ,摂津より牧野親成が入封し10代を経て廃藩となり,峰山藩は京極氏(12代)で一貫した。…

※「京極氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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