志比庄(読み)しひのしよう

日本歴史地名大系 「志比庄」の解説

志比庄
しひのしよう

九頭竜くずりゆう川中流部、上志比かみしひ村・永平寺えいへいじ町一帯に比定される京都最勝光さいしようこう院領の荘園。同院は承安三年(一一七三)白河天皇の女御建春門院平滋子の御願寺として建立されているから、ほぼこの頃に集積されたものであろう。「吾妻鏡」建久五年(一一九四)一二月一〇日条によれば鎌倉殿御家人比企朝宗が当庄を押領したこと、また領家の愁訴により朝宗から「陳謝不押領」の請文を召したことなどが知られる。

その後、最勝光院の衰凋に伴い、同院執務職が後醍醐天皇から正中元年(一三二四)東寺に寄付されたが、この頃の志比庄領家は入道弾正親王(忠房)家であった(嘉暦元年一一月一二日付「六波羅裁許状」東寺百合文書)。なお、同二年(一三二七)三月付最勝光院庄園目録案(同文書)

<資料は省略されています>

とあって、当庄に賦課された課役の内容が知られる。なお、前記入道弾正親王忠房はこの目録案にみえる領家嵯峨中将法印坊の跡を継いで領家となったものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む