白山山系に連なる
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
開山は曹洞宗の開祖道元。道元は正治二年(一二〇〇)父を内大臣久我通親、母を藤原基房の女として生れた。建保元年(一二一三)天台座主公円について剃髪、仏法房道光と名乗った。その後比叡山で一切経論を学び、同二年、栄西の室に入って臨済の宗風を学んだ。しかし栄西が翌年亡くなったため、栄西の後、京都東山
寛元元年(一二四三)道元は「護国正法義」を著し、朝廷に提出、しかしそれを判じた比叡山の反感を買い、寺の破却にまで及んだ。この時、関東御家人であり、越前国の
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福井県北部,吉田郡の町。2006年2月旧永平寺,上志比(かみしひ),松岡(まつおか)の3町が合体して成立した。人口2万0647(2010)。
永平寺町中部の旧町。吉田郡所属。1962年町制。人口6385(2005)。中央を九頭竜(くずりゆう)川と支流の永平寺川が西流し,河川沿いに低地があるほかは浄法寺山(1053m)を最高峰とする山地が大部分を占める。永平寺川の上流には曹洞宗大本山永平寺があり,毎年150万人をこす参拝客が訪れる。京福電鉄(現,えちぜん鉄道勝山永平寺線。なお京福電鉄永平寺線は2002年に廃止)が通じ,永平寺を中心とする観光と,農林業,繊維工業が町の基幹産業であり,農業は米作と栗の栽培を奨励している。
永平寺町東部の旧村。吉田郡所属。人口3414(2005)。九頭竜川中流南岸に位置し,九頭竜川の沖積低地と北流する4本の支流がつくる小扇状地が本村の平野部をなす。西の福井平野と東の大野盆地を結ぶ勝山街道の道筋に当たり宿場町として発達し,北東端の小船渡(こぶなと)には九頭竜川の渡し場があった。村名は古来当地方一帯を志比荘と称したことによる。村域の大半が山林で杉,松がよく生育し,米作を中心とする農業とともに村の基幹産業となっている。繊維工業も主要産業の一つとして福井機業の一端をになっていたが,零細企業で技術設備面に障害があり,近年は不振である。南東端の山崖にある吉峰寺は道元が越前に来て初めて開いた道場である。京福電鉄越前本線(現,えちぜん鉄道勝山永平寺線),国道416号線が通る。
執筆者:上田 雅子
永平寺町西部の旧町。吉田郡所属。人口1万0965(2005)。西流する九頭竜川が福井平野に出るところに位置し,町域の北半はその扇状地が占める。1645年(正保2)松平昌勝が福井藩から5万石を分知され,九頭竜川南岸の芝原江上村に館を置いて松岡と改め,松岡藩が成立,侍屋敷約300の館町として発展した。〈松岡八町〉といわれる町屋敷も整い,17世紀末には家数358。1721年(享保6)2代藩主昌平(宗昌)が本家を継ぎ福井藩に合体して廃藩。中世以来鋳物業が盛んで,近世には梵鐘や鍋釜などを鋳造して越前各地に販売。幕末には洋式大砲をつくり火薬製造所もおかれた。鋳物のほか,廃藩によって福井に移転した士族の屋敷跡に竹を植えたのに始まるという竹細工や,織物,酒造業が行われ,ことに北部の志比堺では機業が行われる。人絹繻子(しゆす)の産が知られる。町域には大規模な古墳群があり,東隣する旧永平寺町との境にある手繰ヶ城山(てぐりがじようやま)古墳(史)は全長128m余の前方後円墳。町の中心にある曹洞宗天竜寺は松平昌勝の創建で,《おくのほそ道》の旅の途次,松尾芭蕉も訪れている。京福電鉄(現,えちぜん鉄道勝山永平寺線)が通じる。
執筆者:隼田 嘉彦+上田 雅子
福井県吉田郡永平寺町にある。山号は吉祥山。横浜総持寺とともに曹洞宗の大本山である。越前にある本山の意より越山(えつさん)とも通称される。日本曹洞宗初祖道元の開創。道元ははじめ,山城宇治に興聖寺を開き,ここで叢林生活を営んでいたが,僧団の拡大や旧仏教の圧迫により,越前に所領を有する覚念や,志比庄地頭波多野義重の招聘を受け,1243年(寛元1)日本達磨宗の徒らを率いて越前に赴いた。はじめ吉峰寺や禅師峰(やましぶ)で門下の指導を行っていたが,翌年7月18日,新造なった寺に入寺開堂し,はじめ傘松峰(さんしようぼう)大仏寺と名づけた。次いで46年大仏寺を永平寺と改称,48年(宝治2)11月1日には,傘松峰を吉祥山と改めた。53年(建長5)道元示寂後は,懐奘,義介,義演と後席が受け継がれたが,三代相論と呼ばれる内部紛争や,97年(永仁5)の火災で法灯や伽藍は衰微した。その後,1314年(正和3)宝慶寺寂円の弟子義雲の入寺によって伽藍は復興され,以後代々永平寺は,中世を通して寂円派の法孫によって一流相続された。72年(文中1・応安5)北朝後円融天皇より〈日本曹洞第一道場〉の勅額および出世道場の綸旨を賜った。1473年(文明5)火災により綸旨および伽藍を失ったが,為宗仲心,金岡用兼,曇英慧応らの募財により伽藍は復興され,1591年(天正19)には出世道場追認の綸旨も下賜された。1615年(元和1)江戸幕府より〈永平諸法度〉が下され,総持寺とともに曹洞宗総本山の規標を立てるに至り,61年(寛文1)には50石,76年(延宝4)には70石が安堵された。江戸期を通じて永平寺住持は,下野大中寺,下総総寧寺,武蔵竜穏寺の3ヵ寺より交代で晋住する関三刹昇住制をとり,幕末まで続いた。永平寺の伽藍は,そのほとんどが近年の建築物であるが,山門,仏殿,法堂,僧堂,庫院,浴司,東司の七堂伽藍が天童山を模して配備されており,宋代叢林の様式をよく伝え,現在も古規にのっとった修行生活が続けられており,また一般参拝者でにぎわっている。境内約10万坪,建物はほかに承陽殿(開山堂),勅使門,不老閣,光明蔵,衆寮,祠堂殿,傘松閣,吉祥閣など70余棟,延べ4500坪を超える。山門は1749年(寛延2)の建造で,後円融天皇の勅額をかかげており,勅使門は天保年間(1830-44)の改築である。寺宝に,道元筆の《普勧坐禅儀》(国宝),《高祖嗣書》,懐奘筆の《正法眼蔵仏性》や1327年(嘉暦2)の梵鐘(重文)などがある。
執筆者:石川 力山
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福井県吉田郡永平寺町にある曹洞(そうとう)宗の大本山。開山は道元(どうげん)。道元は1227年(安貞1)中国宋(そう)から帰朝し、33年(天福1)山城(やましろ)国(京都府)宇治深草に興聖寺(こうしょうじ)を開いて住すること10年に及んだが、43年(寛元1)興聖寺を去って、檀越(だんおつ)波多野義重(よししげ)の領地である越前(えちぜん)(福井県)に赴いた。入越後しばらく吉峰寺(よしみねでら)、禅師峰(やましぶ)の古寺に仮寓(かぐう)したが、翌年、伽藍(がらん)の完工とともに永平寺に移った。初めは寺名を大仏寺と称したが、1246年吉祥山(きちじょうざん)永平寺と改めた。永平寺の寺名は、後漢(ごかん)・明(めい)帝の永平10年(西暦67)に仏教が初めて中国に伝えられたように、正しい日本仏教はこの寺より始まるという道元の抱負に基づき、その年号にちなんで命名された。大仏寺は現在の永平寺の位置から6キロメートル山奥に、その旧跡と伝えられている所があって、いつの時代か現在地に建てられたという伝承がある。しかし、初めから現在地に建てられたという移転否定説が有力である。道元の後を継いで永平寺第2世となったのは弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)であるが、懐奘の弟子徹通義介(てっつうぎかい)が入宋(にっそう)し、彼(か)の地の禅刹(ぜんせつ)伽藍を見聞して帰朝してのち、山門を建て、回廊をつくって伽藍を整備した。1297年(永仁5)火災にあったが、越前宝慶寺(ほうきょうじ)より義雲(ぎうん)(第5世)が転住して復興した。このため義雲は中興と称される。
1372年(文中1・応安5)後円融(ごえんゆう)天皇の勅詔によって永平寺は日本曹洞第一道場の勅額を授けられたが、1473年(文明5)の兵火により諸堂ならびに勅書を焼くに至り、1539年(天文8)朝廷からふたたび日本曹洞出世道場の追認が与えられた。1615年(元和1)には徳川秀忠(ひでただ)によって法度(はっと)が永平寺に下され、能登(のと)(石川県)の総持寺(現在は神奈川県横浜市)と並んで曹洞宗大本山としての地位が確認された。江戸時代には黄檗(おうばく)宗の伝来によって叢林(そうりん)の規矩(きく)が乱れたが、1795年(寛政7)玄透(げんとう)(第50世)が入院し、道元の清規(しんぎ)の復古と伽藍の再興に尽くした。永平寺は道元以来、宋の太白山天童景徳禅寺(たいはくざんてんどうけいとくぜんじ)に模したものであるが、現在に至るまでよく宋元禅林の古規を伝えているのは、主として玄透の功績による。これがために玄透は重興と称される。
[鏡島元隆]
現在の伽藍は、山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線上に並び、仏殿の東には大庫院(だいくいん)(台所)、西には僧堂が相対し、山門の東回廊の端に浴室、西回廊に東司(とうす)(便所)が配されて、いわゆる七堂伽藍が整然と配置されている。そのほか、承陽殿(じょうようでん)(道元廟(びょう))、衆寮(しゅりょう)、聖宝館(宝物館)、玲瓏(れいろう)閣、傘松(さんしょう)閣、祠堂(しどう)殿、瑞雲(ずいうん)閣、大光明蔵、不老閣、妙高台などの大建築が回廊で結ばれ、さらに近年吉祥閣が竣功(しゅんこう)して近代的設備を備えて、山中に一偉観を呈している。伽藍の大部分は近代の建築であるが、山門は1749年(寛延2)の建造で、後円融天皇の勅額「日本曹洞第一道場」(国の重要文化財)が掲げられている。
寺宝には、道元自筆の『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻(国宝)をはじめ、『普勧坐禅儀撰述(せんじゅつ)由来記』1幅(国宝)、道元所持の『嗣書(ししょ)』1幅や懐奘筆写の『正法眼蔵仏性(しょうぼうげんぞうぶっしょう)』1冊(いずれも国の重要文化財)などがある。
[鏡島元隆]
『桜井秀雄著『永平寺・総持寺』(1964・教育新潮社)』▽『笛岡自照著『永平寺雑考』(1983・古径荘)』
福井県北部、吉田郡にある町。福井市の東方。1962年(昭和37)志比(しひ)村が町制施行し、永平寺町と改称。2006年(平成18)同郡上志比村(かみしひむら)、松岡町(まつおかちょう)を合併。九頭竜川(くずりゅうがわ)中流域と支流の永平寺川の谷を占め、永平寺川の上流に道元(どうげん)禅師の道場、曹洞(そうとう)宗大本山永平寺がある。えちぜん鉄道勝山永平寺線、永平寺大野道路(中部縦貫自動車道の一部)が通じる。経済の中心は勝山街道(国道416号)と国道364号の交差する東古市(ひがしふるいち)で、小規模な機業が多い。その北の鳴鹿(なるか)は古くから九頭竜川の渡河点で、やや下流には十郷(じゅうごう)用水の取り入れ口がある。面積94.43平方キロメートル、人口1万8965(2020)。
[島田正彦]
『『永平寺町史』全2巻(1984、1987・永平寺町)』
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福井県永平寺町にある曹洞宗本山。吉祥山と号す。比叡山の圧迫をのがれ波多野義重の招きをうけてこの地に下った道元が,1244年(寛元2)大仏寺を開き,2年後に永平寺と改称。3世徹通の時代に,徹通と義演の間で永平寺相続や宗風をめぐる論争が勃発。徹通派は永平寺を離れ加賀国大乗寺に拠ったが,瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)らの活躍によりまもなく永平寺を圧倒。やがて永平寺に復帰して主導権を握り,同寺は再び曹洞全教団の本山となった。1615年(元和元)には江戸幕府の永平寺諸法度によって,総持寺とともに曹洞宗総本山の承認を得た。多数の文書を蔵し,道元筆の「普勧坐禅儀」は国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…これは集団で入門した越前波着(はじやく)寺の懐鑑(えかん)や道元に学んだ徹通義介ら越前と関係の深い人々の勧めに負うところが大きいと考えられるが,やはり志比荘の地頭波多野義重の勧誘も動機の一つであろう。初め志比荘に大仏寺を建立,46年これを永平寺と改称した。道元の死後は相続権をめぐる三代相論が起こり,加賀に大乗寺を分立させる結果となって永平寺は衰退に向かった。…
…このため,同年7月,道元は門下に集団加入した越前波著寺系の大恵派の人々の働きかけと,俗弟子の波多野義重の招きを受けて,その所領である越前志比庄に下り,翌年大仏寺を開いた。 1246年(寛元4)6月,大仏寺を永平寺と改め,法名をみずから道元から希玄に改めた。そののちも一段と厳しい修行にうちこみ,ついに在家成仏や女人成仏をも否定して,出家至上主義の傾向を強めていった。…
※「永平寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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