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永平寺 えいへいじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

永平寺
えいへいじ

福井県永平寺町にある曹洞宗大本山山号は吉祥山。寛元2 (1244) 年道元延暦寺の圧力から逃れ,越前の土豪波多野義重の援助によって創建。現在でも曹洞宗僧侶の修行の場で,常時数多くの雲水が修行している。志比谷に位置し,駅前門前町の奥に,スギの老樹に囲まれた数多くの建物が配置されている。道元自筆の『普勧坐禅儀』 (国宝) を所蔵する。

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デジタル大辞泉の解説

えいへい‐じ【永平寺】

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞(そうとう)宗の大本山。山号は吉祥山。開創は寛元2年(1244)、開山道元、開基は波多野義重。初め大仏寺と称したが、寛元4年永平寺と改めた。道元筆の「普勧坐禅儀」(国宝)や銅鐘(重文)などを所蔵。

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百科事典マイペディアの解説

永平寺【えいへいじ】

福井県永平寺町にある曹洞宗大本山。本尊釈迦如来。越山とも通称される。1244年道元が波多野義重の援助を受け大仏寺(現地より9km奥)を建立したのに由来し,1246年寺号を改める。
→関連項目永平寺[町]興聖寺正法寺総持寺福井[県]

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世界大百科事典 第2版の解説

えいへいじ【永平寺】

福井県吉田郡永平寺町にある。山号は吉祥山。横浜総持寺とともに曹洞宗の大本山である。越前にある本山の意より越山(えつさん)とも通称される。日本曹洞宗初祖道元の開創。道元ははじめ,山城宇治に興聖寺を開き,ここで叢林生活を営んでいたが,僧団の拡大や旧仏教の圧迫により,越前に所領を有する覚念や,志比庄地頭波多野義重の招聘を受け,1243年(寛元1)日本達磨宗の徒らを率いて越前に赴いた。はじめ吉峰寺や禅師峰(やましぶ)で門下の指導を行っていたが,翌年7月18日,新造なった寺に入寺開堂し,はじめ傘松峰(さんしようぼう)大仏寺と名づけた。

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大辞林 第三版の解説

えいへいじ【永平寺】

福井県吉田郡永平寺町にある寺。総持寺と並ぶ曹洞宗の大本山。山号は吉祥山。1244年、京都深草から道元が移って開山。その後、道元とその弟子の修行道場となった。はじめ大仏寺と称したが1246年永平寺と改称。五世義雲の時、現在地に移転。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

永平寺
えいへいじ

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞(そうとう)宗の大本山。開山は道元(どうげん)。道元は1227年(安貞1)中国宋(そう)から帰朝し、33年(天福1)山城(やましろ)国(京都府)宇治深草に興聖寺(こうしょうじ)を開いて住すること10年に及んだが、43年(寛元1)興聖寺を去って、檀越(だんおつ)波多野義重(よししげ)の領地である越前(えちぜん)(福井県)に赴いた。入越後しばらく吉峰寺(よしみねでら)、禅師峰(やましぶ)の古寺に仮寓(かぐう)したが、翌年、伽藍(がらん)の完工とともに永平寺に移った。初めは寺名を大仏寺と称したが、1246年吉祥山(きちじょうざん)永平寺と改めた。永平寺の寺名は、後漢(ごかん)・明(めい)帝の永平10年(西暦67)に仏教が初めて中国に伝えられたように、正しい日本仏教はこの寺より始まるという道元の抱負に基づき、その年号にちなんで命名された。大仏寺は現在の永平寺の位置から6キロメートル山奥に、その旧跡と伝えられている所があって、いつの時代か現在地に建てられたという伝承がある。しかし、初めから現在地に建てられたという移転否定説が有力である。道元の後を継いで永平寺第2世となったのは弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)であるが、懐奘の弟子徹通義介(てっつうぎかい)が入宋(にっそう)し、彼(か)の地の禅刹(ぜんせつ)伽藍を見聞して帰朝してのち、山門を建て、回廊をつくって伽藍を整備した。1297年(永仁5)火災にあったが、越前宝慶寺(ほうきょうじ)より義雲(ぎうん)(第5世)が転住して復興した。このため義雲は中興と称される。
 1372年(文中1・応安5)後円融(ごえんゆう)天皇の勅詔によって永平寺は日本曹洞第一道場の勅額を授けられたが、1473年(文明5)の兵火により諸堂ならびに勅書を焼くに至り、1539年(天文8)朝廷からふたたび日本曹洞出世道場の追認が与えられた。1615年(元和1)には徳川秀忠(ひでただ)によって法度(はっと)が永平寺に下され、能登(のと)(石川県)の総持寺(現在は神奈川県横浜市)と並んで曹洞宗大本山としての地位が確認された。江戸時代には黄檗(おうばく)宗の伝来によって叢林(そうりん)の規矩(きく)が乱れたが、1795年(寛政7)玄透(げんとう)(第50世)が入院し、道元の清規(しんぎ)の復古と伽藍の再興に尽くした。永平寺は道元以来、宋の太白山天童景徳禅寺(たいはくざんてんどうけいとくぜんじ)に模したものであるが、現在に至るまでよく宋元禅林の古規を伝えているのは、主として玄透の功績による。これがために玄透は重興と称される。[鏡島元隆]

堂宇・寺宝

現在の伽藍は、山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線上に並び、仏殿の東には大庫院(だいくいん)(台所)、西には僧堂が相対し、山門の東回廊の端に浴室、西回廊に東司(とうす)(便所)が配されて、いわゆる七堂伽藍が整然と配置されている。そのほか、承陽殿(じょうようでん)(道元廟(びょう))、衆寮(しゅりょう)、聖宝館(宝物館)、玲瓏(れいろう)閣、傘松(さんしょう)閣、祠堂(しどう)殿、瑞雲(ずいうん)閣、大光明蔵、不老閣、妙高台などの大建築が回廊で結ばれ、さらに近年吉祥閣が竣功(しゅんこう)して近代的設備を備えて、山中に一偉観を呈している。伽藍の大部分は近代の建築であるが、山門は1749年(寛延2)の建造で、後円融天皇の勅額「日本曹洞第一道場」(国の重要文化財)が掲げられている。
 寺宝には、道元自筆の『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻(国宝)をはじめ、『普勧坐禅儀撰述(せんじゅつ)由来記』1幅(国宝)、道元所持の『嗣書(ししょ)』1幅や懐奘筆写の『正法眼蔵仏性(しょうぼうげんぞうぶっしょう)』1冊(いずれも国の重要文化財)などがある。[鏡島元隆]
『桜井秀雄著『永平寺・総持寺』(1964・教育新潮社) ▽笛岡自照著『永平寺雑考』(1983・古径荘)』

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世界大百科事典内の永平寺の言及

【越前国】より

…これは集団で入門した越前波着(はじやく)寺の懐鑑(えかん)や道元に学んだ徹通義介ら越前と関係の深い人々の勧めに負うところが大きいと考えられるが,やはり志比荘の地頭波多野義重の勧誘も動機の一つであろう。初め志比荘に大仏寺を建立,46年これを永平寺と改称した。道元の死後は相続権をめぐる三代相論が起こり,加賀に大乗寺を分立させる結果となって永平寺は衰退に向かった。…

【道元】より

…このため,同年7月,道元は門下に集団加入した越前波著寺系の大恵派の人々の働きかけと,俗弟子の波多野義重の招きを受けて,その所領である越前志比庄に下り,翌年大仏寺を開いた。 1246年(寛元4)6月,大仏寺を永平寺と改め,法名をみずから道元から希玄に改めた。そののちも一段と厳しい修行にうちこみ,ついに在家成仏や女人成仏をも否定して,出家至上主義の傾向を強めていった。…

※「永平寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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