白河天皇(読み)シラカワテンノウ

デジタル大辞泉 「白河天皇」の意味・読み・例文・類語

しらかわ‐てんのう〔しらかはテンワウ〕【白河天皇】

[1053~1129]第72代天皇。在位1073~1087。後三条天皇の第1皇子。名は貞仁。譲位後も、堀河鳥羽崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った。深く仏教に帰依し、社寺参詣もしきりに行った。法名、融覚。

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精選版 日本国語大辞典 「白河天皇」の意味・読み・例文・類語

しらかわ‐てんのうしらかはテンワウ【白河天皇】

  1. 第七二代天皇。後三条天皇の第一皇子。母は藤原茂子。名は貞仁。延久四年(一〇七二)即位。応徳三年(一〇八六)幼少の堀河天皇に譲位の後も、上皇として院政をはじめ、堀河、鳥羽、崇徳天皇の三代、四三年間執政した。嘉保三年(一〇九六)出家して法皇となる(法名融覚)。仏教に深く帰依したが、造寺や寺社参詣をしきりに行ない、その財源を富裕な受領層に求めた。その治世の破綻は、「天下三不如意」(山法師賀茂川の水・双六のさい)として伝えられる。天喜元~大治四年(一〇五三‐一一二九

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改訂新版 世界大百科事典 「白河天皇」の意味・わかりやすい解説

白河天皇 (しらかわてんのう)
生没年:1053-1129(天喜1-大治4)

第72代に数えられる天皇。在位1072-86年。後三条天皇第1皇子。母は藤原公成女(同能信養女)茂子。諱(いみな)は貞仁。1065年(治暦1)元服。69年(延久1)東宮。72年12月即位。翌年父上皇没。また摂関家の重鎮であった前関白藤原頼通,上東門院彰子が翌74年(承保1)に,75年には関白教通が没,関白は頼通の子師実が継いだ。そして摂関家の衰勢に対し,先朝以来の村上源氏の進出が目だつが,同氏は本来摂関家と姻戚関係が深く,両者は必ずしも対立的ではなかった。白河即位に当たり,東宮には後三条の意志で女御源基子所生の2歳の異母弟実仁親王が立つが,これは摂関家が外戚となるのを排したためといわれる。しかし同親王は85年(応徳2)に没した。実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。院政が開始された背景には古代以来存在した太上天皇の権威や,直接には師実が完全な外戚となりえず,上皇や村上源氏と協調的であったという事情のほか,貴族社会の婚姻形態の変化から,母系より父系が優位となった傾向も関係があるらしい。上皇は96年(永長1)出家して法皇となり,その間天皇も1107年(嘉承2)堀河が没し,鳥羽が即位した。23年(保安4)鳥羽譲位,崇徳即位と変わるが,法皇は没年まで〈治天の君〉として君臨,ことに鳥羽即位以後がその専制の時期といわれる。摂関家では師実の後を継いだ師通が没し,その子忠実のときになると政治的な発言力は一段と低下する。法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。

 彼は在位中より,後三条天皇の荘園整理の方針をうけついだが,院の近臣団の構成員である受領の要望に合致する。また後三条とは逆に受領等の成功(じようごう)は積極的に受け入れ,その収入は法勝寺(ほつしようじ)をはじめとする盛大な造寺造仏や鳥羽殿の造営などに投入された。たび重なる熊野・高野参詣や,殺生禁断なども治世中の特色といえる。また《後拾遺和歌集》《金葉和歌集》を勅撰させた。院政を支える近臣団には受領層や,葉室顕隆など院との個人的関係ことに乳母関係や寵幸等によって抜擢された中・下級の貴族や実務官僚たちがあり,また源氏,平氏等の武士があった。院直属の武力の〈北面の武士〉は白河院のときにはじまる。院が自己の武力を必要としたのは,父の意に反して皇位継承から排除した輔仁親王をめぐる勢力への警戒心や,延暦寺,興福寺等武力を背景にはなはだしくなった嗷訴の防御もその理由とされる。源氏は奥州での戦い以来増大した義家の勢力が警戒され,院の一族分裂策によって衰退し,代わって伊勢平氏の正盛・忠盛が受領歴任や対宋貿易等で蓄えた富力と,院や貴族への奉仕により勢力を得た。陵は成菩提院陵(京都市伏見区)。
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百科事典マイペディア 「白河天皇」の意味・わかりやすい解説

白河天皇【しらかわてんのう】

平安後期の天皇。後三条天皇の第一皇子で,1072年即位。摂関勢力の減退に乗じて実権を握り,1086年堀河天皇に譲位後も上皇として堀河・鳥羽・崇徳(すとく)3天皇の43年間にわたって政務を執った。これが院政の始まりである。1096年出家し法皇となり,法勝(ほっしょう)寺など多くの造寺・造仏や熊野詣(くまのもうで)などを行った。
→関連項目郁芳門院伊勢大輔大江匡房久我家後拾遺和歌集佐嘉荘鳥羽殿藤原師実堀河天皇万寿寺

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朝日日本歴史人物事典 「白河天皇」の解説

白河天皇

没年:大治4.7.7(1129.7.24)
生年:天喜1.6.19(1053.7.7)
平安後期の天皇で,譲位後も長く太上天皇として君臨し,いわゆる院政の伝統を創った。諱は貞仁。後三条天皇の第1皇子。生母の藤原茂子は実父が藤原公成,養父が藤原能信で,摂関家の娘ではない。父後三条が即位した治暦4(1068)年の翌延久1(1069)年,皇太子に立てられる。さらに3年後の4年,父の譲位を受けて践祚した。しかし,問題はこのとき異母弟の実仁親王が立太子したことにある。後三条の譲位の目的は実仁の立太子にあったと考えられ,この父の意思によって,白河天皇の子孫は皇位継承から除外される方向が明らかになった。白河の全人生は,かかる父の遺志に逆らい,自己の子孫の皇位継承を実現することに費やされる。その途は父と実仁の死によって開かれた。応徳2(1085)年実仁が病死すると,翌応徳3(1086)年,白河は嫡子(堀河天皇)を皇太子に立てたその日に譲位を行った。緊張した異例の譲位であるが,それはなお有力な皇位継承候補者として,輔仁親王(実仁の同母弟)が存在していたためである。白河の宿願は,康和5(1103)年堀河天皇に長男(鳥羽天皇)が誕生して,ようやく果たされた。白河はこの孫の鳥羽天皇の即位に引き続き,さらにその長男(崇徳天皇)も即位させて,ついに在世中に皇位継承は曾孫にまで至ることとなった。その執念の深さが窺われる。 保安1(1120)年,関白藤原忠実を勅勘に処した事件を起こすが,これは鳥羽天皇が忠実と連携して自立の動きをみせたためであるらしい。このように77年の生涯を通して,白河は皇位継承と子孫に対する支配を貫徹しようとした。この点に院政と呼ばれるものの本質があろうかと考えられる。白河はよく専制君主と評価されているが,実際にはそのようにはみなし難い。愛憎の情は激しくとも,基本的に貴族と協調的であった。「天下三不如意」や「雨水の禁獄」などの説話にも,その悪戯好きで冗談も口にする一面を読み取るべきであろう。<参考文献>河内祥輔「後三条・白河院政の一考察」(『都と鄙の中世史』)

(河内祥輔)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「白河天皇」の意味・わかりやすい解説

白河天皇
しらかわてんのう
(1053―1129)

平安後期の天皇(在位1072~86)。名は貞仁(さだひと)。天喜(てんき)元年6月20日生まれ。後三条(ごさんじょう)天皇の第1皇子。母は藤原能信(よしのぶ)の娘茂子(藤原公成(きんなり)の養女となる)。父から譲位され即位、第1皇子の夭逝(ようせつ)後、第2皇子善仁(たるひと)親王8歳のときに位を譲り(堀河(ほりかわ)天皇)、院政を行った。親政、院政期を通じて、1075年(承保2)、99年(康和1)、1107年(嘉承2)、27年(大治2)などに荘園(しょうえん)整理令を発し、父の政治路線を引き継いだ。また、叙位、任官について独裁的な発言力をもち、受領(ずりょう)を優遇した。院の武力として北面(ほくめん)の武士を創設し、新興の源・平氏をこれにあてた。仏教への傾倒も著しく、1096年(永長1)出家して法皇となり、「国王の氏寺(うじでら)」とうたわれた法勝寺(ほっしょうじ)などを建立した。堀河天皇の死後、5歳の宗仁(むねひと)親王を即位させ(鳥羽(とば)天皇)、さらに譲位させ、鳥羽の皇子顕仁(あきひと)親王を皇位につけた(崇徳(すとく)天皇)。3代の天皇の在位期間を通じて「治天の君(ちてんのきみ)」の地位にあり、親政時代を含めると半世紀を超えて権力を握っていた。とくにその後半は絶対的な専制政治を行ったことによって「天下三不如意(てんかさんふにょい)」(賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほうし))の話が生まれた。藤原宗忠(むねただ)は彼が死んだとき、「法皇の威光は四海に満ち、天下これに帰服した」とその日記『中右記(ちゅうゆうき)』に評した。大治(だいじ)4年7月7日死去。墓は京都市伏見(ふしみ)区竹田浄菩提院(じょうぼだいいん)町の成菩提院陵。

[川島茂裕]

『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「白河天皇」の意味・わかりやすい解説

白河天皇
しらかわてんのう

[生]天喜1(1053).6.20. 京都
[没]大治4(1129).7.7. 京都
第 72代の天皇 (在位 1072~86) 。名は貞仁。後三条天皇の第1皇子,母は中納言藤原公成の娘,贈皇太后藤原茂子。延久4 (72) 年4月受禅即位。当時摂関家の勢力減退に乗じて実権を伸ばし,応徳3 (86) 年第3皇子善仁親王 (堀河天皇) に譲位したが,その後も上皇として政務をとり,いわゆる院政を開始した。仏教に帰依し,永長1 (96) 年剃髪して法皇となり,法名を融覚と称したが,依然として院政をとり,堀河,鳥羽,崇徳の3代にわたっている。法勝寺をはじめとする多くの造寺造仏や鳥羽離宮などの大土木工事は富裕な受領層の力によることが多かった。その治世は普通「天下三不如意」の「山法師,賀茂川の水,双六のさい」として伝えられているが,これは当時の世相の混乱を示すものである。陵墓は京都市伏見区竹田浄菩提院町の成菩提院陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「白河天皇」の解説

白河天皇
しらかわてんのう

1053.6.19~1129.7.7

在位1072.12.8~86.11.26

後三条天皇の第1皇子。名は貞仁(さだひと)。母は藤原公成の女茂子(能信の養女)であり,摂関家の出ではない。1068年(治暦4)父後三条の即位にともない親王となり,翌年皇太子に立つ。72年(延久4)父の譲位により践祚したが,皇太子には父の意志によって異母弟の実仁(さねひと)親王が立てられた。85年(応徳2)実仁が病死すると,翌年天皇は皇子(堀河天皇)を皇太子に立て,即日これに譲位した。その後も異母弟輔仁(すけひと)親王の存在を意識しつつ,自己の皇統を作ることに執心し,孫の鳥羽天皇から曾孫の崇徳(すとく)天皇まで即位させ,一系継承のかたちを作りあげた。白河上皇の治世をもって院政の始まりとされるが,それは上皇の皇位継承に対する意志が一貫して強く発現したことにかかわりがある。信仰心が厚く,かずかずの逸話にも人間味を伝えるものが多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「白河天皇」の解説

白河天皇 しらかわてんのう

1053-1129 平安時代中期-後期,第72代天皇。在位1073*-87*。
天喜(てんぎ)元年6月19日生まれ。後三条天皇の第1皇子。母は藤原茂子。父の譲位をうけて即位。在位中に後三年の役や富士山の噴火があった。譲位後は院政をしき堀河・鳥羽・崇徳(すとく)3天皇の43年間,政治の実権をにぎった(院政のはじめ)。北面の武士をおいて御所と僧兵の騒乱などにそなえ,また仏教を信じ法勝寺などを建立した。大治(だいじ)4年7月7日死去。77歳。墓所は成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は貞仁(さだひと)。別名に六条院。法名は融観。日記に「白河院御記」。
【格言など】静かなるけしきぞしるき月影の八百(やほ)よろづ代を照らすべければ(「玉葉和歌集」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「白河天皇」の解説

白河天皇
しらかわてんのう

1053〜1129
平安後期の天皇(在位1072〜86)
後三条天皇第1皇子。摂関家の勢力を抑え,堀河天皇へ譲位後,1086年院政を開始。堀河・鳥羽・崇徳の3代43年間政権を担当。1096年出家して法皇となった。仏事に熱心で法勝寺などの造寺・造仏につとめたが,財政が窮迫したため,成功 (じようごう) ・重任 (ちようにん) などの売位・売官が盛んに行われた。

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367日誕生日大事典 「白河天皇」の解説

白河天皇 (しらかわてんのう)

生年月日:1053年6月19日
平安時代後期の第72代の天皇
1129年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の白河天皇の言及

【院政】より

…太上天皇(上皇,法皇)の執政を常態とする政治形態。律令政治が天皇と貴族の共同統治的官僚政治であり,摂関政治が上級官僚貴族の寡頭政治的色彩が強いのに対し,白河上皇の専制的な権勢のもとに定着した政治形態を,後世の史家が院政と名付けたのである。
[院政の成立]
 上皇の国政関与は,最初の太上天皇である持統上皇以来みられる現象で,その背景には中国における太上皇帝の執政の影響も推測されるが,平安時代初頭,薬子の変の反省に基づき,嵯峨上皇は大政不干渉を強調して,前代の風潮に終止符を打った。…

【金葉和歌集】より

…平安末期の歌集。勅撰和歌集の第5番目。源俊頼撰。10巻。白河院の院宣をうけ,1124年(天治1)初度本を奏覧したが却下。次いで翌年の二度本も返却,26年(大治1)の末から27年の初めころに三奏本を奏覧し,嘉納された。二度本が流布する。《八代集全註》には,3種とも翻刻。名称,巻数とも勅撰集の伝統を破り,内容的にも新奇な表現が目立って,保守派側からの非難を浴びた。俊頼や父経信,顕季らの清新な歌が多い。【上条 彰次】…

【白河殿】より

…白河の地は現在の京都市左京区の南辺,吉田山の南西部を北東から南西の方向に流路をもつ白川に沿った地域をいう。この地に早く藤原良房の経営した別荘白河殿があり,摂関家領として伝領されたが,師実の代に白河天皇に献上され,同天皇によって1075年(承保2)に再開発され77年(承暦1)に法勝寺が創建供養された。法勝寺西方の水石風流の地に所在した,宇治大僧正覚円の住房が白河上皇に進上され,95年(嘉保2)白河泉殿が造立された。…

【鳥羽殿】より

…洛南鳥羽の地は東を鴨川,西を桂川にはさまれた池沼の多い地域であったが,京に近く交通の便の良い景勝の地であった。この地に早く備前守藤原季綱が山荘を経営していたが,1086年(応徳3)白河天皇へ寄進し,天皇の後院(ごいん)として鳥羽殿が造営された。平安京の朱雀大路南端から京の南郊の鳥羽まで直線で南下する鳥羽作道(とばのつくりみち)を,鳥羽殿の西辺とし,道に沿って北殿と南殿が北と南に位置し,北殿の東に田中殿,その東に東殿が位置していた。…

【堀河天皇】より

…在位1086‐1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。…

※「白河天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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