第72代に数えられる天皇。在位1072-86年。後三条天皇第1皇子。母は藤原公成女(同能信養女)茂子。諱(いみな)は貞仁。1065年(治暦1)元服。69年(延久1)東宮。72年12月即位。翌年父上皇没。また摂関家の重鎮であった前関白藤原頼通,上東門院彰子が翌74年(承保1)に,75年には関白教通が没,関白は頼通の子師実が継いだ。そして摂関家の衰勢に対し,先朝以来の村上源氏の進出が目だつが,同氏は本来摂関家と姻戚関係が深く,両者は必ずしも対立的ではなかった。白河即位に当たり,東宮には後三条の意志で女御源基子所生の2歳の異母弟実仁親王が立つが,これは摂関家が外戚となるのを排したためといわれる。しかし同親王は85年(応徳2)に没した。実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。院政が開始された背景には古代以来存在した太上天皇の権威や,直接には師実が完全な外戚となりえず,上皇や村上源氏と協調的であったという事情のほか,貴族社会の婚姻形態の変化から,母系より父系が優位となった傾向も関係があるらしい。上皇は96年(永長1)出家して法皇となり,その間天皇も1107年(嘉承2)堀河が没し,鳥羽が即位した。23年(保安4)鳥羽譲位,崇徳即位と変わるが,法皇は没年まで〈治天の君〉として君臨,ことに鳥羽即位以後がその専制の時期といわれる。摂関家では師実の後を継いだ師通が没し,その子忠実のときになると政治的な発言力は一段と低下する。法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。
彼は在位中より,後三条天皇の荘園整理の方針をうけついだが,院の近臣団の構成員である受領の要望に合致する。また後三条とは逆に受領等の成功(じようごう)は積極的に受け入れ,その収入は法勝寺(ほつしようじ)をはじめとする盛大な造寺造仏や鳥羽殿の造営などに投入された。たび重なる熊野・高野参詣や,殺生禁断なども治世中の特色といえる。また《後拾遺和歌集》《金葉和歌集》を勅撰させた。院政を支える近臣団には受領層や,葉室顕隆など院との個人的関係ことに乳母関係や寵幸等によって抜擢された中・下級の貴族や実務官僚たちがあり,また源氏,平氏等の武士があった。院直属の武力の〈北面の武士〉は白河院のときにはじまる。院が自己の武力を必要としたのは,父の意に反して皇位継承から排除した輔仁親王をめぐる勢力への警戒心や,延暦寺,興福寺等武力を背景にはなはだしくなった嗷訴の防御もその理由とされる。源氏は奥州での戦い以来増大した義家の勢力が警戒され,院の一族分裂策によって衰退し,代わって伊勢平氏の正盛・忠盛が受領歴任や対宋貿易等で蓄えた富力と,院や貴族への奉仕により勢力を得た。陵は成菩提院陵(京都市伏見区)。
執筆者:黒板 伸夫
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(河内祥輔)
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平安後期の天皇(在位1072~86)。名は貞仁(さだひと)。天喜(てんき)元年6月20日生まれ。後三条(ごさんじょう)天皇の第1皇子。母は藤原能信(よしのぶ)の娘茂子(藤原公成(きんなり)の養女となる)。父から譲位され即位、第1皇子の夭逝(ようせつ)後、第2皇子善仁(たるひと)親王8歳のときに位を譲り(堀河(ほりかわ)天皇)、院政を行った。親政、院政期を通じて、1075年(承保2)、99年(康和1)、1107年(嘉承2)、27年(大治2)などに荘園(しょうえん)整理令を発し、父の政治路線を引き継いだ。また、叙位、任官について独裁的な発言力をもち、受領(ずりょう)を優遇した。院の武力として北面(ほくめん)の武士を創設し、新興の源・平氏をこれにあてた。仏教への傾倒も著しく、1096年(永長1)出家して法皇となり、「国王の氏寺(うじでら)」とうたわれた法勝寺(ほっしょうじ)などを建立した。堀河天皇の死後、5歳の宗仁(むねひと)親王を即位させ(鳥羽(とば)天皇)、さらに譲位させ、鳥羽の皇子顕仁(あきひと)親王を皇位につけた(崇徳(すとく)天皇)。3代の天皇の在位期間を通じて「治天の君(ちてんのきみ)」の地位にあり、親政時代を含めると半世紀を超えて権力を握っていた。とくにその後半は絶対的な専制政治を行ったことによって「天下三不如意(てんかさんふにょい)」(賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほうし))の話が生まれた。藤原宗忠(むねただ)は彼が死んだとき、「法皇の威光は四海に満ち、天下これに帰服した」とその日記『中右記(ちゅうゆうき)』に評した。大治(だいじ)4年7月7日死去。墓は京都市伏見(ふしみ)区竹田浄菩提院(じょうぼだいいん)町の成菩提院陵。
[川島茂裕]
『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』
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1053.6.19~1129.7.7
在位1072.12.8~86.11.26
後三条天皇の第1皇子。名は貞仁(さだひと)。母は藤原公成の女茂子(能信の養女)であり,摂関家の出ではない。1068年(治暦4)父後三条の即位にともない親王となり,翌年皇太子に立つ。72年(延久4)父の譲位により践祚したが,皇太子には父の意志によって異母弟の実仁(さねひと)親王が立てられた。85年(応徳2)実仁が病死すると,翌年天皇は皇子(堀河天皇)を皇太子に立て,即日これに譲位した。その後も異母弟輔仁(すけひと)親王の存在を意識しつつ,自己の皇統を作ることに執心し,孫の鳥羽天皇から曾孫の崇徳(すとく)天皇まで即位させ,一系継承のかたちを作りあげた。白河上皇の治世をもって院政の始まりとされるが,それは上皇の皇位継承に対する意志が一貫して強く発現したことにかかわりがある。信仰心が厚く,かずかずの逸話にも人間味を伝えるものが多い。
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…太上天皇(上皇,法皇)の執政を常態とする政治形態。律令政治が天皇と貴族の共同統治的官僚政治であり,摂関政治が上級官僚貴族の寡頭政治的色彩が強いのに対し,白河上皇の専制的な権勢のもとに定着した政治形態を,後世の史家が院政と名付けたのである。
[院政の成立]
上皇の国政関与は,最初の太上天皇である持統上皇以来みられる現象で,その背景には中国における太上皇帝の執政の影響も推測されるが,平安時代初頭,薬子の変の反省に基づき,嵯峨上皇は大政不干渉を強調して,前代の風潮に終止符を打った。…
…平安末期の歌集。勅撰和歌集の第5番目。源俊頼撰。10巻。白河院の院宣をうけ,1124年(天治1)初度本を奏覧したが却下。次いで翌年の二度本も返却,26年(大治1)の末から27年の初めころに三奏本を奏覧し,嘉納された。二度本が流布する。《八代集全註》には,3種とも翻刻。名称,巻数とも勅撰集の伝統を破り,内容的にも新奇な表現が目立って,保守派側からの非難を浴びた。俊頼や父経信,顕季らの清新な歌が多い。【上条 彰次】…
…白河の地は現在の京都市左京区の南辺,吉田山の南西部を北東から南西の方向に流路をもつ白川に沿った地域をいう。この地に早く藤原良房の経営した別荘白河殿があり,摂関家領として伝領されたが,師実の代に白河天皇に献上され,同天皇によって1075年(承保2)に再開発され77年(承暦1)に法勝寺が創建供養された。法勝寺西方の水石風流の地に所在した,宇治大僧正覚円の住房が白河上皇に進上され,95年(嘉保2)白河泉殿が造立された。…
…洛南鳥羽の地は東を鴨川,西を桂川にはさまれた池沼の多い地域であったが,京に近く交通の便の良い景勝の地であった。この地に早く備前守藤原季綱が山荘を経営していたが,1086年(応徳3)白河天皇へ寄進し,天皇の後院(ごいん)として鳥羽殿が造営された。平安京の朱雀大路南端から京の南郊の鳥羽まで直線で南下する鳥羽作道(とばのつくりみち)を,鳥羽殿の西辺とし,道に沿って北殿と南殿が北と南に位置し,北殿の東に田中殿,その東に東殿が位置していた。…
…在位1086‐1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。…
※「白河天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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