精選版 日本国語大辞典 「白河天皇」の意味・読み・例文・類語
しらかわ‐てんのう しらかはテンワウ【白河天皇】
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(河内祥輔)
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平安後期の天皇(在位1072~86)。名は貞仁(さだひと)。天喜(てんき)元年6月20日生まれ。後三条(ごさんじょう)天皇の第1皇子。母は藤原能信(よしのぶ)の娘茂子(藤原公成(きんなり)の養女となる)。父から譲位され即位、第1皇子の夭逝(ようせつ)後、第2皇子善仁(たるひと)親王8歳のときに位を譲り(堀河(ほりかわ)天皇)、院政を行った。親政、院政期を通じて、1075年(承保2)、99年(康和1)、1107年(嘉承2)、27年(大治2)などに荘園(しょうえん)整理令を発し、父の政治路線を引き継いだ。また、叙位、任官について独裁的な発言力をもち、受領(ずりょう)を優遇した。院の武力として北面(ほくめん)の武士を創設し、新興の源・平氏をこれにあてた。仏教への傾倒も著しく、1096年(永長1)出家して法皇となり、「国王の氏寺(うじでら)」とうたわれた法勝寺(ほっしょうじ)などを建立した。堀河天皇の死後、5歳の宗仁(むねひと)親王を即位させ(鳥羽(とば)天皇)、さらに譲位させ、鳥羽の皇子顕仁(あきひと)親王を皇位につけた(崇徳(すとく)天皇)。3代の天皇の在位期間を通じて「治天の君(ちてんのきみ)」の地位にあり、親政時代を含めると半世紀を超えて権力を握っていた。とくにその後半は絶対的な専制政治を行ったことによって「天下三不如意(てんかさんふにょい)」(賀茂(かも)川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほうし))の話が生まれた。藤原宗忠(むねただ)は彼が死んだとき、「法皇の威光は四海に満ち、天下これに帰服した」とその日記『中右記(ちゅうゆうき)』に評した。大治(だいじ)4年7月7日死去。墓は京都市伏見(ふしみ)区竹田浄菩提院(じょうぼだいいん)町の成菩提院陵。
[川島茂裕]
『安田元久著『日本の歴史7 院政と平氏』(1974・小学館)』
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1053.6.19~1129.7.7
在位1072.12.8~86.11.26
後三条天皇の第1皇子。名は貞仁(さだひと)。母は藤原公成の女茂子(能信の養女)であり,摂関家の出ではない。1068年(治暦4)父後三条の即位にともない親王となり,翌年皇太子に立つ。72年(延久4)父の譲位により践祚したが,皇太子には父の意志によって異母弟の実仁(さねひと)親王が立てられた。85年(応徳2)実仁が病死すると,翌年天皇は皇子(堀河天皇)を皇太子に立て,即日これに譲位した。その後も異母弟輔仁(すけひと)親王の存在を意識しつつ,自己の皇統を作ることに執心し,孫の鳥羽天皇から曾孫の崇徳(すとく)天皇まで即位させ,一系継承のかたちを作りあげた。白河上皇の治世をもって院政の始まりとされるが,それは上皇の皇位継承に対する意志が一貫して強く発現したことにかかわりがある。信仰心が厚く,かずかずの逸話にも人間味を伝えるものが多い。
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…太上天皇(上皇,法皇)の執政を常態とする政治形態。律令政治が天皇と貴族の共同統治的官僚政治であり,摂関政治が上級官僚貴族の寡頭政治的色彩が強いのに対し,白河上皇の専制的な権勢のもとに定着した政治形態を,後世の史家が院政と名付けたのである。
[院政の成立]
上皇の国政関与は,最初の太上天皇である持統上皇以来みられる現象で,その背景には中国における太上皇帝の執政の影響も推測されるが,平安時代初頭,薬子の変の反省に基づき,嵯峨上皇は大政不干渉を強調して,前代の風潮に終止符を打った。…
…平安末期の歌集。勅撰和歌集の第5番目。源俊頼撰。10巻。白河院の院宣をうけ,1124年(天治1)初度本を奏覧したが却下。次いで翌年の二度本も返却,26年(大治1)の末から27年の初めころに三奏本を奏覧し,嘉納された。二度本が流布する。《八代集全註》には,3種とも翻刻。名称,巻数とも勅撰集の伝統を破り,内容的にも新奇な表現が目立って,保守派側からの非難を浴びた。俊頼や父経信,顕季らの清新な歌が多い。【上条 彰次】…
…白河の地は現在の京都市左京区の南辺,吉田山の南西部を北東から南西の方向に流路をもつ白川に沿った地域をいう。この地に早く藤原良房の経営した別荘白河殿があり,摂関家領として伝領されたが,師実の代に白河天皇に献上され,同天皇によって1075年(承保2)に再開発され77年(承暦1)に法勝寺が創建供養された。法勝寺西方の水石風流の地に所在した,宇治大僧正覚円の住房が白河上皇に進上され,95年(嘉保2)白河泉殿が造立された。…
…洛南鳥羽の地は東を鴨川,西を桂川にはさまれた池沼の多い地域であったが,京に近く交通の便の良い景勝の地であった。この地に早く備前守藤原季綱が山荘を経営していたが,1086年(応徳3)白河天皇へ寄進し,天皇の後院(ごいん)として鳥羽殿が造営された。平安京の朱雀大路南端から京の南郊の鳥羽まで直線で南下する鳥羽作道(とばのつくりみち)を,鳥羽殿の西辺とし,道に沿って北殿と南殿が北と南に位置し,北殿の東に田中殿,その東に東殿が位置していた。…
…在位1086‐1107年。白河天皇第2皇子,母は中宮賢子(源顕房女,藤原師実養女)。諱(いみな)は善仁(たるひと)。…
※「白河天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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冬期3カ月の平均気温が平年と比べて高い時が暖冬、低い時が寒冬。暖冬時には、日本付近は南海上の亜熱帯高気圧に覆われて、シベリア高気圧の張り出しが弱い。上層では偏西風が東西流型となり、寒気の南下が阻止され...
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