朝倉孝景(読み)アサクラタカカゲ

デジタル大辞泉 「朝倉孝景」の意味・読み・例文・類語

あさくら‐たかかげ【朝倉孝景】

[1428~1481]室町中期の武将。敏景としかげともいう。斯波しば氏に仕えていたが、内紛に乗じて越前を領し、一乗谷いちじょうだにに築城。応仁の乱斯波氏に代わって越前守護となった。

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精選版 日本国語大辞典 「朝倉孝景」の意味・読み・例文・類語

あさくら‐たかかげ【朝倉孝景】

  1. [ 一 ] 戦国大名。越前守護。貞景の子。弾正左衛門尉。法名大岫宗淳。将軍足利義稙(よしたね)殊遇を受け、佐々木氏を討った。明応二~天文一七年(一四九三‐一五四八
  2. [ 二 ] 朝倉敏景別称

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朝日日本歴史人物事典 「朝倉孝景」の解説

朝倉孝景

没年:文明13.7.26(1481.8.21)
生年:正長1(1428)
越前(福井県)の戦国大名。家景の子。通称小太郎,のち孫右衛門尉。弾正左衛門尉。名前は敏景,教景,孝景と変えたが,敏景の前は教景を名乗っていたと推定される。長禄3(1459)年に斯波氏家臣最大の実力者甲斐常治が死んで以後は,幕府から越前守護代に任じる案が出るほど朝倉氏の威勢は高まっていた。応仁の乱では当初甲斐氏と共に斯波義廉を奉じて山名宗全率いる西軍に属し,数々の軍功をあげ武名をはせた。しかし,文明3(1471)年,越前守護代任命を条件に公然と細川勝元方の東軍に転じる。その後越前各地で甲斐氏と戦って翌年これを加賀(石川県)に追い,同7年には大野郡で抵抗を続けていた二宮氏を破ってほぼ越前を制圧した。しかし同11年,斯波・甲斐・二宮連合軍が越前に侵攻し,在陣は2年近くにもおよんだ。孝景の病没はこの対陣中のことであった。公家甘露寺親長は「天下に悪事の始まった張本人」としてその死を喜んでいる(『親長卿記』)。「朝倉孝景十七箇条」は能力主義,合理主義をうたい戦国大名の政治思想をよく伝えているが,孝景が制定したという確証はない。『朝倉宗滴話記』には,孝景が慇懃をもって国を治めたこと,恩賞は家臣に広く与えたこと,武芸を大切にしたことなど末子宗滴による賛辞が語られている。連歌,和歌,蹴鞠などにも長じ,心月寺(福井市)に残る画像は朝倉氏中興の祖の風貌をよく伝えている。

(河村昭一)


朝倉孝景

没年:天文17.3.22(1548.4.30)
生年:明応2(1493)
越前(福井県)の戦国大名。貞景の子。通称孫次郎。弾正左衛門尉。永正9(1512)年父の死により家督を継ぐ。翌年,近江(滋賀県)に出兵し,大内・細川両氏に実権を奪われ甲賀にあった将軍足利義尹(義稙)の帰京を助け,その後もしばしば近隣諸国に兵を送っている。また朝廷に多額の即位料や内裏修理料を献じたりしていることもその国力の充実ぶりを示すものであるが,この間に孝景は,白傘袋,毛氈鞍覆や塗輿を許され,有力守護大名と並んで相伴衆(室町幕府の職名)に列せられるなど栄誉に浴している。天沢寺など父祖菩提寺や自分の菩提寺性安寺を創建し,和歌,蹴鞠などにも傾倒した。その城下町一乗谷(福井市)には多くの文化人が訪れている。

(河村昭一)

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百科事典マイペディア 「朝倉孝景」の意味・わかりやすい解説

朝倉孝景【あさくらたかかげ】

越前(えちぜん)国の戦国大名。教景・敏景とも称した。家景の嫡子。越前守護斯波(しば)氏の三家老の一人。主家の内紛に乗じて越前の支配を確立,一乗谷(いちじょうだに)を本拠として戦国大名に成長。子の氏景のために残したとされる家訓朝倉孝景条々》(《朝倉敏景十七箇条》《朝倉英林壁書》とも)がある。法名英林宗雄。
→関連項目一乗谷杣山城

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝倉孝景」の意味・わかりやすい解説

朝倉孝景
あさくらたかかげ
(1428―1481)

戦国大名。初め斯波(しば)氏の重臣、守護代であったが、のち、戦国大名越前(えちぜん)(福井県)朝倉氏の初代となる。教景(のりかげ)、敏景(としかげ)ともいう。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)のとき、当初西軍斯波義廉(よしかど)に従い、東軍の斯波義敏(よしとし)を攻めるなど西軍の猛将として活躍したが、将軍足利義政(あしかがよしまさ)、管領(かんれい)細川勝元(かつもと)の誘いに応じ東軍に寝返り、1471年(文明3)主家斯波氏から越前の支配権を奪取した。福井市心月(しんげつ)寺に伝わるその画像(国指定重要文化財)は、一代の英雄のおもかげをよく伝えている。また「朝倉敏景十七箇条」(孝景条々)は、台頭する戦国大名の合理的なものの考え方を示し、戦国家法として著名である。文明(ぶんめい)13年7月26日没。法名英林宗雄。

[水藤 真]


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改訂新版 世界大百科事典 「朝倉孝景」の意味・わかりやすい解説

朝倉孝景 (あさくらたかかげ)
生没年:1493-1548(明応2-天文17)

戦国時代の武将,越前国の大名。幼名孫次郎,のち弾正左衛門尉に任ず。貞景の嫡子。孝景の治世は政権が最も安定し,近隣諸国さらに中央政局の動向にも密接な関与をしたが,最大の悩みは一向一揆対策であった。1513年(永正10)六角氏を破り,将軍足利義稙(よしたね)の還京に成功。27年(大永7)三好氏と争い勝利を得,のち相伴衆となる。35年(天文4)後奈良天皇の即位式費用1万疋を献上。
執筆者:


朝倉孝景 (あさくらたかかげ)

朝倉敏景(あさくらとしかげ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朝倉孝景」の意味・わかりやすい解説

朝倉孝景
あさくらたかかげ

[生]正長1(1428).越前
[没]文明13(1481).7.26. 越前
戦国大名。家景の子。弾正左衛門尉,さらに敏景とも称し,入道して英林宗雄。越前守護斯波氏の3家老の一人となり,長禄2 (1458) 年,斯波氏の内紛に乗じ,守護代甲斐氏を討って越前を領し一乗谷に築城して朝倉氏繁栄の基礎を築いた (→一乗谷城 ) 。応仁の乱では,初め斯波氏の将として西軍に属し,京極持清らに対したが,のち東軍に転じた。文明3 (71) 年,越前守護となり,斯波氏および甲斐氏らを討ち,17ヵ条から成る家訓を定めて内政の充実をはかった。 (→朝倉孝景条々 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朝倉孝景」の解説

朝倉孝景(1) あさくら-たかかげ

1428-1481 室町時代の武将。
応永35年4月19日生まれ。応仁の乱を機に守護斯波(しば)氏にかわって越前(えちぜん)(福井県)を支配。一乗谷を本拠に戦国大名としての基盤をきずく。家訓「朝倉敏景十七箇条」をのこした。文明13年7月26日死去。54歳。初名は教景,のち繁景,敏景。通称は孫右衛門尉,弾正左衛門尉。法名は英林宗雄。
【格言など】たとえ万疋(まんびき)の太刀刀(たちかたな)を持たりとも,百疋の鑓(やり)百丁には勝(すぐ)れまじく候(家訓)

朝倉孝景(2) あさくら-たかかげ

1493-1548 戦国時代の武将。
明応2年11月22日生まれ。朝倉貞景(さだかげ)の子。越前(えちぜん)(福井県)守護。将軍足利義稙(よしたね)をたすけて六角氏綱を討ち,足利義晴の代には三好氏をやぶった。のち幕府の相伴衆となる。天文(てんぶん)17年3月22日死去。56歳。通称は孫次郎,弾正左衛門尉。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「朝倉孝景」の解説

朝倉孝景
あさくらたかかげ

1428.4.19~81.7.26

室町中期の武将。家景の子。初名教景。「朝倉始末記」などは敏景とする。法名英林宗雄。越前国における管領斯波(しば)氏の被官。守護代斯波義廉(よしかど)を家督に擁し,寺社本所領の押領を進めた。応仁・文明の乱でははじめ西軍に属したが,越前国支配権の公認を条件に東軍に転じる。越前国回復をめざす斯波義良との対陣中に病没。子の氏景のために家訓「朝倉孝景条々」を残す。

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367日誕生日大事典 「朝倉孝景」の解説

朝倉孝景 (あさくらたかかげ)

生年月日:1428年4月19日
室町時代;戦国時代の越前の大名;家景の子
1481年没

朝倉孝景 (あさくらたかかげ)

生年月日:1493年11月22日
戦国時代の越前の大名;貞景の子
1548年没

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