志紀郡
しきぐん
「和名抄」にみえ、東急本に「之伎」の訓がある。律令制の確立以後は原則として志紀と書かれるが、丙戌年(朱鳥元年、六八六)五月の年紀を記す金剛場陀羅尼経第一の跋語(小川広巳氏蔵文書)に「志貴評」、「古事記」雄略天皇段に「志幾大県主」とあるなど、「志貴」「志幾」と記される場合もある。
〔古代〕
「和名抄」高山寺本によると当郡は、長野・拝志・志紀・田井・井於・邑智・新家・土師の八郷からなり、「延喜式」神名帳によれば名神大社の志貴県主(現藤井寺市)、志紀長吉(現平野区)、当宗(現羽曳野市)の三社、小社としては長野・志疑・黒田・伴林氏・辛国(現藤井寺市)、樟本(現八尾市)の六社がある。当郡は石川を東限とし、大和からの大和川と南河内からの石川が合流したのち、さらに大和川が北流して玉串川・長瀬川に分流する地域を含み、石川西岸の国府台地(現藤井寺市)は洪積層下位段丘で、北および北西部は大和川の沖積平野である。沖積平野部は大和川の氾濫によってしばしば洪水の害をうけたが、宝永元年(一七〇四)の現大和川の開削によって、郡内は二分されることになった。なお、郡域は相当に変化し、正確な古代の郡域の復原は困難であるが、近世の郡域は現在では、北半部が八尾市の南部、南半部が藤井寺市の東部にあたり、一部(柏原地域)が柏原市に属する。
当郡の条里の坪並は南東隅を一坪とし北東隅を三六坪とする連続式で、条は南北に通って東を基点とし、各条の里は南方から始められている。東は柏原、船橋・北條・惣社・国府・道明寺(現藤井寺市)を含む南北線を一条とし、西は北木本・南木本(現八尾市)の東半、太田(現同上)の東半、小山(現藤井寺市)の東半を五条とする。だがこの志紀郡条里の地域だけが郡域ではなかった。前出の志紀長吉神社は、この条里を離れた西の丹比郡条里の地である現大阪市平野区の長吉長原の地にある。もとより社地の移動も考えなければならないが、長吉の地名の残存からすると同じ長吉の名をもつこの神社の社地の大幅な移動は考えがたく、「延喜式」の作成された一〇世紀初頭の段階で現在の長吉の地も当郡に属したものと考えられる。その一方で当郡の南東端の誉田(現羽曳野市)の北半部の地は、中世以降には古市郡に属している(→古市郡)。以上のような現大和川開削による自然地形の変化や郡界の変動はあるが、国府台地の北端地域は、北方の河内の平野部全体はもとより南方の石川上流地域をも眺望できる視界の広さをもち、また竜田川・石川・大和川などの水運を利用しうる交通の要地であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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