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雄略天皇 ゆうりゃくてんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

雄略天皇
ゆうりゃくてんのう

第21代に数えられる天皇。5世紀後半に在位したとされる。允恭天皇皇子。母はオサカノオオナカツヒメノミコト。名はオオハツセノワカタケノミコト。記紀によれば,同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し,さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して即位した。平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に,大伴連室屋と物部連目を大連とし,秦氏漢氏をはじめ渡来人をも重く用いて政権の強化に努め,強大な権力をもった専制的君主であったとみられる。『宋書』倭国伝などに記された倭王武は,雄略天皇であると考えられ,古代天皇の専制的,英雄的性格の頂点に立っている(→倭の五王)。しかし朝鮮では,雄略天皇の前後から高句麗新羅百済および任那を圧迫したので,天皇はしばしば兵を送ったが,朝鮮の支配はしだいに困難となった。またこの代にの国から漢織呉織(くれはとり)など機織りの技術者を迎え入れたと伝えられる。大和の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に都し,草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。橘姫)を立てて皇后とした。皇后には子がなく,天皇の死後は葛城円(かつらぎのつぶら)大臣の娘,葛城韓媛(かつらぎのからひめ)の産んだ白髪皇子(清寧天皇)と,吉備氏の娘稚媛の産んだ星川皇子とが皇位を争った。墓は大阪府羽曳野市島泉の丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。

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デジタル大辞泉の解説

ゆうりゃく‐てんのう〔‐テンワウ〕【雄略天皇】

記紀で、第21代天皇。允恭天皇の皇子とされる。名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。大和朝廷の勢力を拡大。478年、に使いを送った倭王武に比定する説がある。

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百科事典マイペディアの解説

雄略天皇【ゆうりゃくてんのう】

日本書紀》にみえる天皇。諱(いみな)はワカタケル。允恭(いんぎょう)天皇の皇子。精力的な人物と伝え,初めて大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制を定めた。その治世は大和朝廷の実力が伸張していった最後の時期(5世紀後半)に相当。
→関連項目餌香市江田船山古墳大王天皇一言主神獲加多支鹵大王

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

雄略天皇 ゆうりゃくてんのう

記・紀系譜による第21代天皇。在位は5世紀後半。
父は允恭(いんぎょう)天皇。母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)。「日本書紀」によると,兄や従兄弟たちを殺して即位。都は泊瀬(はつせ)の朝倉宮。朝鮮半島の乱れに乗じ,百済(くだら)や新羅(しらぎ),高麗(こま)への影響力強化を画策したとつたえる。「宋書」倭国伝の倭王の武(ぶ)とされる。埼玉県稲荷山(いなりやま)古墳の鉄剣銘と熊本県江田船山古墳の鉄刀銘に「獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」としるされている。雄略天皇23年8月7日死去。124歳(「古事記」)。墓所は丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)(大阪府羽曳野市)。別名は大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけるのすめらみこと)。

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世界大百科事典 第2版の解説

ゆうりゃくてんのう【雄略天皇】

5世紀後半の天皇。允恭天皇の子,母は忍坂大中姫。諱(いみな)はワカタケル(幼武,若建),宮は大和泊瀬朝倉宮。陵は河内丹比高鷲原(たじひのたかわしのはら)陵と伝える。記紀によると,治世中,天皇権力に干渉していた葛城臣,吉備臣など〈臣姓豪族〉を没落させ,はじめて大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制を定め,大伴連,物部連らを登用し,いわゆる〈連姓豪族〉によって朝廷の組織を確立する端緒をひらいた。また,葛城山で一言主(ひとことぬし)神と会い,狩りを競い,神が天皇を現人神として侍送したので,百姓らは天皇の徳をたたえたといい,河内の志幾大県主(しきのおおあがたぬし)が堅魚木(かつおぎ)を家に上げて天皇の殿舎に擬したので怒り,この家を焼いたとあるなど,天皇の権威の成立を示す説話がある。

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大辞林 第三版の解説

ゆうりゃくてんのう【雄略天皇】

記紀で、第二一代天皇大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけのみことの漢風諡号しごう。允恭いんぎよう天皇第五皇子。「宋書」に見える倭王武に比定される。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

雄略天皇
ゆうりゃくてんのう

生没年不詳。5世紀後半の天皇で、記紀では第21代に数えられる。『日本書紀』には在位23年で崩ずと記す。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)(大長若建)天皇(命(みこと))ともいう。允恭(いんぎょう)天皇の皇子で、母は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)(大中津比売)。泊瀬朝倉宮に即位し、王権を強化する。諸氏族の反乱を鎮圧し、対外関係においても注目すべき伝えがある。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王武(わおうぶ)は雄略天皇とする説があり、倭王武は478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅(しらぎ)、任那(みまな)、加羅、秦韓(しんかん)、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命された。『南斉書(なんせいしょ)』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記す。埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(いなりやま)古墳出土の鉄剣銘文にみえる「護加多支(わかたける)大王」は雄略天皇とする説が多い。『梁書(りょうしょ)』や『南史』にみえる502年の倭王武は、『宋書』の倭王武とは別の王とする説もあり、502年の中国史書の記述は、実際の朝貢に基づいたのではなく、5世紀後半の倭王武の遣使朝貢を受けた記述とする見解が有力である。墓は丹比高鷲原(たじひのたかわしはら)陵(大阪府羽曳野(はびきの)市)とする。[上田正昭]

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世界大百科事典内の雄略天皇の言及

【稲荷山古墳】より

… 前半には上祖オホヒコ(意冨比垝)からこの銘文の主人公であるヲワケ(乎獲居)に至る8代の系譜が記され,後半には今まで代々〈杖刀人の首〉(親衛隊の長)として仕えてきたが,ワカタケル(獲加多支鹵)大王の朝廷(寺)がシキ(斯鬼)宮にあるとき,ヲワケがその統治を助けた記念として,この刀を作り来歴を記した旨が刻まれている。ワカタケル大王を大泊瀬幼武天皇(《宋書》倭国伝にみえる倭王武で,雄略天皇),シキ宮を大和の磯城に当て,辛亥年をその治世の471年に比定する説が有力である。またヲワケについては,この礫槨の被葬者をヲワケとし,〈杖刀人の首〉は律令制の兵衛(ひようえ)などに連なるものとみて,ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と,上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣(かしわでのおみ)の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし,あるいは〈杖刀人〉は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ)であるとみて,ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている。…

【江田船山古墳】より

…銘文の解読の基礎は福山敏男が1934年につくり,最初の部分を〈治天下□□□歯大王世□□〉と読んで,蝮(たじひの)宮に天の下治(しろし)めす弥都歯(みずは)大王,すなわち反正天皇にあてた。この福山説にしたがって,大刀を438年ころの製作と考えるのが定説であったが,78年に埼玉(さきたま)稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌銘が発見されたとき,岸俊男らの解読の際に再検討が加えられ,これはむしろ稲荷山銘と同じく獲加多支鹵(ワカタケル)と読めることが示され,雄略天皇の時代の製作とみる説が有力になった。内容の概略は〈獲□□□鹵大王の世に,事(つか)える典曹人の无[利][工]が大錡(かま)を用いて好い刀を作った。…

【吉備氏の反乱】より

…《日本書紀》に3種の伝承を載せている。雄略7年8月条では,吉備下道前津屋(さきつや)が宮廷に宦者(とねり)として仕えていた弓削部虚空(おおそら)を帰郷時に留使したが,雄略天皇によって召還される。前津屋が大女や大雄鶏を自分に,小女や小禿雄鶏を雄略に見立てて戦わせ,雄略の側が勝つとこれを殺しているのを虚空から聞いた雄略は,物部30人をして一族70人を誅滅した。…

※「雄略天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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