5世紀後半の天皇。允恭天皇の子,母は忍坂大中姫。諱(いみな)はワカタケル(幼武,若建),宮は大和泊瀬朝倉宮。陵は河内丹比高鷲原(たじひのたかわしのはら)陵と伝える。記紀によると,治世中,天皇権力に干渉していた葛城臣,吉備臣など〈臣姓豪族〉を没落させ,はじめて大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制を定め,大伴連,物部連らを登用し,いわゆる〈連姓豪族〉によって朝廷の組織を確立する端緒をひらいた。また,葛城山で一言主(ひとことぬし)神と会い,狩りを競い,神が天皇を現人神として侍送したので,百姓らは天皇の徳をたたえたといい,河内の志幾大県主(しきのおおあがたぬし)が堅魚木(かつおぎ)を家に上げて天皇の殿舎に擬したので怒り,この家を焼いたとあるなど,天皇の権威の成立を示す説話がある。他方,木工の不敬を怒り,これを物部に付して刑し,舎人が職分を全うしえないのでこれを斬ろうとし,仕丁らが天皇を批判すると黥(めさき)して鳥養部(とりかいべ)におとすなど,〈大悪天皇〉と称されるほど専制的武断的な行為を印象づけてもいる。
記紀のほか,埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に,〈加多支鹵(わかたける)大王〉とあり,熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘に,〈□□□鹵大王〉とあるのも,ともに雄略天皇をさすであろう。また《宋書》夷蛮伝にみえる倭の五王のうち,最後の倭王武は雄略と考えられる。武は478年,宋に上表し,〈東は毛人〉〈西は衆夷〉〈渡りて海北〉を平定したとのべ,実際に朝鮮半島南部を含む〈六国諸軍事〉の将軍号を称し,安東将軍より安東大将軍に進められ,その後479年鎮東大将軍,502年征東将軍に進められている。倭の五王のうち,武に画期のあることは疑いなく,大王を称するにふさわしいといえよう。
同時に外交をみると,475年,高句麗により百済の王都漢山城は陥され,久麻那利(くまなり)(熊津)に遷都する。天皇は百済を後援したが,このときより百済を経由して南朝梁の文化を輸入するようになる。戦乱の地,百済と高句麗の間に多く才芸あるものが居住し,去就を知らないゆえに東漢氏(やまとのあやうじ)がこれを日本に迎えたというのも,そのあらわれといえる。これを百済才伎といい,新(今来)漢人(いまきのあやひと)というが,日本古代の部(べ)の制度は彼らによって組織されたと考えられ,雄略朝が国家組織上の画期とみられるのもそのためである。
執筆者:平野 邦雄
記紀,特に《古事記》の雄略天皇物語は,かずかずの求婚譚の連鎖という体をなす。そこでの雄略は意欲的に乙女を妻問う天子として語られており,その風貌の一端が〈媛女(おとめ)のい隠(かく)る岡を 金鉏(かなすき)も五百箇(いおち)もがも 鉏きはぬるもの〉との歌謡にうかがえよう。天子の多妻は古代の通例でその活力の誇示という意味をもつ。したがって求婚譚という話柄は他の天皇物語に多少ともみられるが,そうした古代王者一般の性格を特に色濃くひとりの伝承像に投影させたのが雄略の物語であろう。《万葉集》巻頭の〈籠(こ)もよみ籠持ち 掘串(ふくし)もよみ掘串持ち……〉という雄略作と伝えられた歌,あるいは同巻十三の〈隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の国に さ結婚(よばい)にわが来れば……〉という問答体の長歌も,そうした伝承の一部とみられる。おそらく伝承は実行としての宮廷聖婚儀礼に媒介されていたはずで,雄略物語の場合そこに〈烏滸(おこ)〉(滑稽,尾籠)の要素がまじるのも聖婚にもとづくためであろう。
執筆者:阪下 圭八
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生没年不詳。5世紀後半の天皇で、記紀では第21代に数えられる。『日本書紀』には在位23年で崩ずと記す。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)(大長若建)天皇(命(みこと))ともいう。允恭(いんぎょう)天皇の皇子で、母は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)(大中津比売)。泊瀬朝倉宮に即位し、王権を強化する。諸氏族の反乱を鎮圧し、対外関係においても注目すべき伝えがある。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王武(わおうぶ)は雄略天皇とする説があり、倭王武は478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅(しらぎ)、任那(みまな)、加羅、秦韓(しんかん)、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命された。『南斉書(なんせいしょ)』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記す。埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山(いなりやま)古墳出土の鉄剣銘文にみえる「護加多支(わかたける)大王」は雄略天皇とする説が多い。『梁書(りょうしょ)』や『南史』にみえる502年の倭王武は、『宋書』の倭王武とは別の王とする説もあり、502年の中国史書の記述は、実際の朝貢に基づいたのではなく、5世紀後半の倭王武の遣使朝貢を受けた記述とする見解が有力である。墓は丹比高鷲原(たじひのたかわしはら)陵(大阪府羽曳野(はびきの)市)とする。
[上田正昭]
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記紀系譜上の第21代天皇。5世紀後半頃の在位という。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇と称する。允恭天皇の第五子。母は忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)命。兄の安康天皇が眉輪(まゆわ)王に殺されると,兄弟を疑い,同母兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を斬り,坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子を眉輪王とともに葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の家で焼き殺した。さらに履中天皇の子で,安康天皇が後継者に考えていた市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺し,泊瀬朝倉宮に即位したと伝える。「宋書」倭国伝にみえる倭王武(ぶ)に比定される。武は477年,安東大将軍を称して将軍号を授けられ,翌年に大将軍,翌々年には鎮東大将軍に進められた。また埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣銘文にみえる「加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」にあてられる。
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… 前半には上祖オホヒコ(意冨比垝)からこの銘文の主人公であるヲワケ(乎獲居)に至る8代の系譜が記され,後半には今まで代々〈杖刀人の首〉(親衛隊の長)として仕えてきたが,ワカタケル(獲加多支鹵)大王の朝廷(寺)がシキ(斯鬼)宮にあるとき,ヲワケがその統治を助けた記念として,この刀を作り来歴を記した旨が刻まれている。ワカタケル大王を大泊瀬幼武天皇(《宋書》倭国伝にみえる倭王武で,雄略天皇),シキ宮を大和の磯城に当て,辛亥年をその治世の471年に比定する説が有力である。またヲワケについては,この礫槨の被葬者をヲワケとし,〈杖刀人の首〉は律令制の兵衛(ひようえ)などに連なるものとみて,ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と,上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣(かしわでのおみ)の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし,あるいは〈杖刀人〉は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ)であるとみて,ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている。…
…銘文の解読の基礎は福山敏男が1934年につくり,最初の部分を〈治天下□□□歯大王世□□〉と読んで,蝮(たじひの)宮に天の下治(しろし)めす弥都歯(みずは)大王,すなわち反正天皇にあてた。この福山説にしたがって,大刀を438年ころの製作と考えるのが定説であったが,78年に埼玉(さきたま)稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌銘が発見されたとき,岸俊男らの解読の際に再検討が加えられ,これはむしろ稲荷山銘と同じく獲加多支鹵(ワカタケル)と読めることが示され,雄略天皇の時代の製作とみる説が有力になった。内容の概略は〈獲□□□鹵大王の世に,事(つか)える典曹人の无[利][工]が大錡(かま)を用いて好い刀を作った。…
…《日本書紀》に3種の伝承を載せている。雄略7年8月条では,吉備下道前津屋(さきつや)が宮廷に宦者(とねり)として仕えていた弓削部虚空(おおそら)を帰郷時に留使したが,雄略天皇によって召還される。前津屋が大女や大雄鶏を自分に,小女や小禿雄鶏を雄略に見立てて戦わせ,雄略の側が勝つとこれを殺しているのを虚空から聞いた雄略は,物部30人をして一族70人を誅滅した。…
※「雄略天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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