志貴庄(読み)しきのしよう

日本歴史地名大系 「志貴庄」の解説

志貴庄
しきのしよう

矢作やはぎ宇頭うとう(現岡崎市)柿崎かきさき尾崎おざきいまそして牛田うしだ(現知立市)を北辺に、矢作川西岸の碧海へきかい幡豆はずの二郡四七ヵ村に分布。

長元元年(一〇二八)三河国の国司に任ぜられた藤原保相が、在任中開発、関白藤原頼通に寄進した荘園。その後、皇后宮大進等が伝領、仁安元年(一一六六)九月、さらに平信範が志貴庄下条げじよう知行することになり、「兵範記」に「参川国志貴荘下条可知行由、大納言殿以安芸守能盛示給、歎之中悦也、是尊霊之遺徳也、深畏申了」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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