日本大百科全書(ニッポニカ) 「忠也派一刀流」の意味・わかりやすい解説
忠也派一刀流
ちゅうやはいっとうりゅう
近世剣術の一流派。流祖は伊藤典膳忠也(いとうてんぜんただなり)(1603―1680)。忠也は一般に小野次郎右衛門忠明(おのじろうえもんもんただあき)(1565―1628)の長子とみられているが、『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には忠明の弟とし、「兄と共に一刀斎に従ひ、剣術を学びて奥儀を究む。のちこの流を忠也派と号す」としている。豪毅(ごうき)な性格で公儀向きの勤仕を嫌い、生涯浪人暮らしであったという。門人には、養嗣となった亀井平右衛門忠雄(1601―1691)をはじめ、忠雄の弟で天心独名流(てんしんどくみょうりゅう)の根来八九郎重明(ねごろはちくろうしげあき)、広島藩に仕えた間宮派(まみやは)の祖、間宮五郎兵衛久也(ひさなり)らがある。なお忠雄は紀州根来の出身で、14歳のとき小野忠明の門に入り、師の死(1628)によって忠也に従い一刀流の奥秘を究め、一刀斎遺愛の瓶割刀(かめわりとう)一文字を受けて第4世を継ぎ、甲府侯徳川綱重(とくがわつなしげ)、後の6代将軍家宣(いえのぶ)の剣術指南役を勤めた。その後忠貫(ただつら)、忠亮(ただすけ)と継いだが、1750年(寛延3)清永(きよなが)のとき、一文字刀を返戻し、亀井に復姓した。
[渡邉一郎]