小野忠明(読み)オノタダアキ

精選版 日本国語大辞典 「小野忠明」の意味・読み・例文・類語

おの‐ただあき【小野忠明】

  1. 江戸初期の剣術家。通称次郎右衛門。安房の人。前名は神子上典膳(みこがみてんぜん)。伊藤一刀斎に学んで秘伝を伝授され、小野派一刀流を開く。江戸に出て、のちに二代将軍となる徳川秀忠の剣術師範を務めた。永祿八~寛永五年(一五六五‐一六二八

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改訂新版 世界大百科事典 「小野忠明」の意味・わかりやすい解説

小野忠明 (おのただあき)
生没年:?-1628(寛永5)

一刀流剣術の大成者で将軍徳川秀忠の剣術師範。通称次郎右衛門。旧名神子上(みこがみ)典膳。上総国(千葉県)出身。24~25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。直情径行,妥協や要領のよさをきらった忠明は,いわば処世術に欠け,対人関係で衝突を起こすことが少なくなかった。大坂夏の陣では旗本たちとの間で争いを起こし閉門させられたり,将軍相手の剣術稽古でも手かげんを加えずきびしく立ち合ったので,しだいに疎んぜられるようになったという。また後世作り話であろうが,真剣の宗矩に対して,忠明は燃残りの薪をもって立ち合い,宗矩を翻弄(ほんろう)し衣服を炭だらけにしたといった武勇伝は数多くある。小野家は忠明の子小野次郎右衛門忠常が相続し,小野派一刀流として代々徳川家に仕え,柳生家とともに将軍家剣術師範として続いた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野忠明」の意味・わかりやすい解説

小野忠明
おのただあき
(1565―1628)

江戸初期の剣術家、小野派一刀流の祖。通称次郎右衛門、前名神子上(御子神)典膳(みこがみてんぜん)。生国安房(あわ)(千葉県)。大和(やまと)(奈良県)の豪族十市(といち)氏の末裔(まつえい)と伝え、父重(しげ)(土佐)のとき里見安房守(あわのかみ)義弘に仕えたという。幼少のころから剣を好み、遊歴中の伊藤一刀斎景久(かげひさ)に師事して諸国を修行し、ついにその奥秘瓶割刀(かめわりとう)を伝授され、1593年(文禄2)29歳のとき江戸に出て徳川家康に謁し、200石をもって召し抱えられ、嗣子(しし)秀忠(ひでただ)の剣術の師となった。このとき母方の姓を継いで、小野次郎右衛門忠明と改名し、1600年(慶長5)秀忠に従って信州上田攻めに軍功があり、やがて累進して御使番(おつかいばん)、御目付兼役となり、800石を領した。しかし性剛直で、大坂夏の陣のとき同僚と争って閉門を命ぜられ、のち許されたが、家を子の忠常に継がせて知行地(ちぎょうち)の下総(しもうさ)国埴生(はぶ)郡寺台村(千葉県成田市内)に隠棲(いんせい)した。

[渡邉一郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小野忠明」の解説

小野忠明 おの-ただあき

1565-1628 織豊-江戸時代前期の剣術家。
永禄(えいろく)8年生まれ。安房(あわ)(千葉県)里見家につかえたのち伊藤一刀斎の門人となり,一刀流の極意をきわめ,小野派一刀流を創始した。文禄(ぶんろく)2年徳川秀忠につかえ,のちに将軍家指南役となった。上田七本槍のひとり。寛永5年11月7日死去。64歳。前名は神子上(みこがみ)典膳。通称は次郎右衛門。
【格言など】座上の兵法は,所詮,畠の水練と同じものでござる(将軍秀忠が兵法について一説をとなえたときの諫言)

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百科事典マイペディア 「小野忠明」の意味・わかりやすい解説

小野忠明【おのただあき】

近世初期の武芸者。二(次)郎右衛門と称す。もと神子上典膳(みこがみてんぜん)といい,伊藤一刀斎について一刀流をきわめた。兄弟子小野善鬼とたたかったという伝説は名高い。のち徳川家康に仕え,秀忠の剣術の師となる。その子忠常〔1608-1665〕も剣にすぐれて小野派一刀流の祖となり家光に仕え,以後代々幕臣であった。

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