一刀流剣術の大成者で将軍徳川秀忠の剣術師範。通称次郎右衛門。旧名神子上(みこがみ)典膳。上総国(千葉県)出身。24~25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康の家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。直情径行,妥協や要領のよさをきらった忠明は,いわば処世術に欠け,対人関係で衝突を起こすことが少なくなかった。大坂夏の陣では旗本たちとの間で争いを起こし閉門させられたり,将軍相手の剣術稽古でも手かげんを加えずきびしく立ち合ったので,しだいに疎んぜられるようになったという。また後世の作り話であろうが,真剣の宗矩に対して,忠明は燃残りの薪をもって立ち合い,宗矩を翻弄(ほんろう)し衣服を炭だらけにしたといった武勇伝は数多くある。小野家は忠明の子小野次郎右衛門忠常が相続し,小野派一刀流として代々徳川家に仕え,柳生家とともに将軍家剣術師範として続いた。
執筆者:中林 信二
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江戸初期の剣術家、小野派一刀流の祖。通称次郎右衛門、前名神子上(御子神)典膳(みこがみてんぜん)。生国安房(あわ)(千葉県)。大和(やまと)(奈良県)の豪族十市(といち)氏の末裔(まつえい)と伝え、父重(しげ)(土佐)のとき里見安房守(あわのかみ)義弘に仕えたという。幼少のころから剣を好み、遊歴中の伊藤一刀斎景久(かげひさ)に師事して諸国を修行し、ついにその奥秘瓶割刀(かめわりとう)を伝授され、1593年(文禄2)29歳のとき江戸に出て徳川家康に謁し、200石をもって召し抱えられ、嗣子(しし)秀忠(ひでただ)の剣術の師となった。このとき母方の姓を継いで、小野次郎右衛門忠明と改名し、1600年(慶長5)秀忠に従って信州上田攻めに軍功があり、やがて累進して御使番(おつかいばん)、御目付兼役となり、800石を領した。しかし性剛直で、大坂夏の陣のとき同僚と争って閉門を命ぜられ、のち許されたが、家を子の忠常に継がせて知行地(ちぎょうち)の下総(しもうさ)国埴生(はぶ)郡寺台村(千葉県成田市内)に隠棲(いんせい)した。
[渡邉一郎]
(藤堂良明)
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