日本大百科全書(ニッポニカ) 「思案橋事件」の意味・わかりやすい解説
思案橋事件
しあんばしじけん
1876年(明治9)10月29日、萩(はぎ)の乱に呼応して永岡久茂(ひさしげ)ら十数名の士族が千葉に兵をあげようとして未然に鎮定された士族反乱未遂事件。永岡は旧会津藩士、戊辰(ぼしん)戦争では松平容保(かたもり)を擁して官軍と戦い敗れ、江戸に幽閉されたが、70年陸奥(むつ)国斗南(となみ)藩権少参事(ごんしょうさんじ)となり、ついで青森県権大属(ごんのたいぞく)などを経て74年上京し、『評論新聞』の海老原穆(えびはらぼく)と親交を結び萩の前原一誠(いっせい)と通じた。76年10月まず熊本で神風連(しんぷうれん)、秋月で宮崎車之助(しゃのすけ)らが反乱し、ついで萩で前原らが蜂起(ほうき)するに及び、呼応して千葉県庁を襲撃しようとして東京府日本橋区(現東京都中央区)小網町から乗船しようとした。しかし官憲に察せられ、日本橋川に注ぐ水路に架かる思案橋付近で乱闘となり鎮定された。永岡は捕縛され、翌年1月獄中で病死した。
[猪飼隆明]
『黒龍会編・刊『西南記伝 上巻2』(1908)』