海老原穆(読み)えびはらぼく

改訂新版 世界大百科事典 「海老原穆」の意味・わかりやすい解説

海老原穆 (えびはらぼく)
生没年:1830-1901(天保1-明治34)

士族民権家。薩摩国生れ。同藩士として戊辰戦争従軍戦功をあげ,1871年桐野利秋に従って上京し陸軍大尉に任官。翌年愛知県官となったが73年下野。75年3月集思社を設立して《評論新聞》を創刊小松原英太郎末広鉄腸,宮崎八郎らを客員として征韓論と民権論を激越に唱えた。76年7月発禁処分にあうと《中外評論》と改題して発行,それがまた10月発禁処分にあうと《文明新誌》を発行し,政府弾圧に抗した。しかし77年5月西南戦争に関し各地の暴動を教唆したとして拘引され,12月懲役1年に処せられた。集思社はこの間に解散。出獄後は各地を流浪し不遇であった。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「海老原穆」の解説

海老原穆 えびはら-ぼく

1830-1901 明治時代ジャーナリスト
文政13年1月3日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士として戊辰(ぼしん)戦争に従軍。明治4年陸軍大尉。5年愛知県官吏となったが辞職。8年「評論新聞」を創刊し政府を批判。9年発禁となり,「中外評論」「文明新誌」と改題。10年東京で西南戦争に呼応しようとして懲役刑をうけた。明治34年6月死去。72歳。

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世界大百科事典(旧版)内の海老原穆の言及

【評論新聞】より

…西郷隆盛配下の旧薩摩藩士海老原穆(ぼく)が設立した集思社(前身は集思堂)の機関誌。1873年1月,日本で最初の評論雑誌として創刊されたが,反政府的論調のため翌月には発行禁止となる。…

※「海老原穆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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