幕末の会津藩主。号は祐堂、芳山。若狭守(わかさのかみ)、肥後守となる。美濃国(みののくに)(岐阜県)高須(たかす)藩主松平義建の六男に生まれ、会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、1852年(嘉永5)襲封した。公武合体論を唱え、1862年(文久2)の幕政改革で幕政参与となり、新設された京都守護職に就任し、尊王攘夷(じょうい)運動が熾烈(しれつ)になった京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派志士弾圧の指揮をとった。1863年の八月十八日の政変では、中川宮(なかがわのみや)や薩摩(さつま)藩らと協力して長州藩などの尊攘派勢力を追放し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)、島津久光(しまづひさみつ)とともに参与として朝政に参画し、公武合体策による国政挽回(ばんかい)を図ったが、内部対立のために失敗した。1864年(元治1)、これを好機として禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こした長州藩を、薩摩・桑名藩とともに撃退し、長州征伐には陸軍総裁職、のち軍事総裁職につき、また京都守護職に復した。その後、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と協力して条約勅許問題などで活躍したが、1867年(慶応3)薩長両藩の画策が功を奏し、容保誅戮(ちゅうりく)の宣旨(せんじ)が出され、大政奉還後、慶喜とともに大坂に退去し、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて海路、江戸へ逃れた。慶喜に再挙を説いたがいれられず、会津で奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり、東北・北越に兵を展開し、籠城(ろうじょう)のうえ降伏、鳥取藩のち和歌山藩に永預(ながあず)けの処分を受けた。1872年(明治5)許され、1880年には東照宮宮司となった。明治26年12月5日没。
[井上勝生]
『手代木勝任・柴太一朗述『松平容保公伝』(『会津藩庁記録』所収・1926・日本史籍協会/復刻版・1982・東京大学出版会)』▽『山川浩著、遠山茂樹校注『京都守護職始末』全2巻(平凡社・東洋文庫)』
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江戸末期の大名。会津藩主。美濃高須藩松平義建の子。会津藩主松平容敬の養子となり,1852年(嘉永5)襲封。62年(文久2)京都守護職に就任後,孝明天皇の信任をうけ,一橋慶喜とともに公武合体に尽力。〈文久3年8月18日の政変〉では薩摩藩と結んで攘夷親征を計画した尊攘派を京都より追放,弟の所司代松平定敬と京都の治安を確保した。王政復古後,鳥羽・伏見の戦に出兵したが敗れ,会津へ帰り謹慎した。
執筆者:羽賀 祥二
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1835.12.29~93.12.5
幕末期の京都守護職。陸奥国会津藩主。父は名古屋藩の支藩高須藩主松平義建(よしたつ)。肥後守。1846年(弘化3)会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり,52年(嘉永5)遺領相続。62年(文久2)京都守護職に任じられ,上洛。8月18日の政変で攘夷派の公家衆を追放し,64年(元治元)禁門の変では上京の萩藩兵を攻撃。長州戦争でも軍を進めた。大政奉還後,鳥羽・伏見の戦に敗れ会津に帰国。戊辰(ぼしん)戦争での敗戦後,鳥取池田家に預けられる。
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…1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命し,会津処分を決定した。これに対し,米沢藩,仙台藩を中心とする東北諸藩は,閏4月,処分強硬派の新政府軍参謀世良修蔵暗殺事件を機にして攻守同盟を結び,5月には,北越諸藩に及ぶ30余藩の奥羽越列藩同盟へと発展させて新政府軍に対抗した。…
…倹約令,物価引下令が出され,株仲間の解散と再興も行われた。美濃国高須から養子として迎えられていた松平容保(かたもり)は,52年(嘉永5)襲封,62年(文久2)には,幕府の強い要請により京都守護職に就任,幕末の困難な政局にあたった。このおり役料として5万石加増,64年(元治1)軍事総裁職のち再び京都守護職を務める過程で,西南諸藩との対立は決定的となり,68年(明治1)恭順の意を表したがいれられず,戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟の中心として徹底抗戦し,敗北した(会津戦争)。…
…徳川幕府末期の京都守衛を職務とする幕府官職。1862年(文久2)閏8月会津藩主松平容保(かたもり)が就任,一時前福井藩主松平慶永が職に就いたが,数ヵ月後再び松平容保に移り,大政奉還まで京都政局に重要な地位を占めた。本来,京都守衛は所司代の任務であったが,ペリー来航後,京都守衛は幕府の威権にかかわる重要な問題として浮上し,幕府は朝廷や諸大名の守衛不備の批判を避けるため,彦根藩,津藩を中心とする守衛体制をつくった。…
※「松平容保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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