改訂新版 世界大百科事典 「士族反乱」の意味・わかりやすい解説
士族反乱 (しぞくはんらん)
明治初年,各地でおこった明治政府批判の士族の反乱。一般には,1869年(明治2)末から70年にかけておこった長州藩諸隊の反乱(脱隊騒動)から,78年5月の紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)までの反乱・諸事件をさす(表参照)。しかし長州藩諸隊の反乱は,大楽(だいらく)源太郎らによる士族反乱の側面をもつものの,他の側面では当時の〈世直し〉的潮流,つまり農民一揆と結びつく要素を内包しており,その限りでは,その後の他の士族反乱とは様相を異にしていた。維新当初の士族中心の反政府行動は,いわゆる〈草莽(そうもう)〉とか〈脱籍浮浪之徒〉とかよばれ,統一国家形成過程で疎外された分子による反乱であり,大官暗殺や藩庁攻撃など不平・不満をそのまま行動に移したものであった。そしてそれは,ときには〈世直し〉の潮流と重なり複合的な矛盾による重層的危機を引き起こしていた。だが明治6年10月の政変(1873),すなわち,いわゆる征韓論の分裂による下野諸参議が,一方では民撰議院設立建白書を提出し,他方では士族反乱という形をとるに及んで,この士族反乱は組織的となり,佐賀の乱から西南戦争へと連なっていく。と同時に,この明治6年10月の政変を契機に士族反乱の件数は急増し,またそれ以前の反乱が藩(県)庁に向けられていたのに対し,以後のものは明治(中央)政府に対する大規模な反乱へと変貌する。その段階になれば,士族反乱は士族の単なる不平・不満ではなく,政府の目ざす近代天皇制の創出とその諸政策に対する批判・抵抗行動として組織化され,反乱は引き起こされたのである。明治6年10月の政変以後の士族反乱が旧西南雄藩に偏在しているのは,そのためである。
1874年2月,佐賀の征韓党と1872年6月秋田県権令をやめた島義勇が結成した憂国党は,東京から下野参議の江藤新平を迎えて兵をあげ,県庁を襲った。江藤は岩倉使節団帰国当時(1873年9月)司法卿として活躍し,とりわけ長州系の疑獄事件に腕を振るっていた。この江藤の佐賀の乱はただちに政府の手で鎮圧され,佐賀に設けられた臨時裁判所で,江藤と島は,かつて江藤司法卿のもとで廃止された梟首(きようしゆ)の刑に処せられた。江藤らは単なる国事犯としてではなく,内乱の首謀者として処理されたのである。同時に,それは不穏な動きを示していた西南地方と全国士族の動静に対して,極刑による政府の権威を示したものであった。
76年3月に廃刀令が出され,8月に華・士族の家禄・賞典禄を廃する金禄公債証書発行条例が公布されるや,これに対する士族の抵抗はふたたび強まった。この年10月には熊本神風連の乱(敬神党),福岡秋月の乱,山口萩の乱と士族反乱は相ついだ。神風連の乱は太田黒伴雄(大野鉄平),加屋霽堅らが洋風を嫌忌し,保守国粋を標榜しておこしたものであり,秋月の乱は旧秋月藩士宮崎車之助,磯淳らが神風連の乱に呼応したものである。萩の乱はかつて参議,兵部大輔として政府の要職にあった前原一誠が,萩の士族と図っておこした反乱であった。前原は明治政府首脳のやり方に厳しい目を向け,とりわけ地租改正や徴兵令をはじめとする国内政策が士族を無視したものであり,朝鮮問題や樺太・千島交換条約などの対外政策にも批判の矢を放っていた。前原による萩の乱は明治政府に衝撃を与えたが,翌77年,下野後鹿児島に帰っていた西郷隆盛を中心とした西南戦争の勃発は,西郷が倒幕運動ないし新政府内部で重きをなしていた人物であっただけに,明治政府のショックは激しく大きいものがあった。政府はただちにその鎮圧に兵を派遣し,九州各地で激戦の末これを破り,西郷以下は城山にたおれた。この西南戦争を鎮圧した政府の中心人物大久保利通もまた,翌78年5月に士族の手によって暗殺されたのである。
これら一連の士族反乱は,明治6年10月の政変(いわゆる征韓論分裂)以後,征韓派と明治政府の首脳部との対立の系譜をもっているが,この政府首脳派は岩倉使節団による米欧回覧の洗礼を受けた外遊派でもあり,開明的旧幕臣層を裾野にした新薩長派であった。この政府首脳=新薩長派も朝鮮問題では〈力〉の政策を展開していたから,その限りでは征韓派の系譜をひく士族反乱派とは共通するところがあった。その対立の基本は,むしろ明治初頭の国際情勢と欧米先進列強に対する認識,およびその認識下での対アジア政策に対応する国内政策のいかんにあった,といえよう。すなわち,列強に対峙(たいじ)する近代天皇制国家を領主制解体の上にいかに築くか,あるいは,あくまでその温存の上に全国的再編によって国家構築をするかが岐路になっていたのである。明治政府の〈内治優先〉はこの前者の別の表現であり,後者の征韓論ないし国権拡張論は,鹿児島士族にみられるような士族独裁政権への構想が組み合わされていた,といえよう。だから士族反乱の底流にはつねに〈四民平等〉への反発があり,地租改正や秩禄処分への反対が主張され,士族的特権の保持が目ざされていたのである。こうした士族反乱であれば,士族反乱と並行して頻発した農民一揆の目ざすところとは本質を異にしていたことは明らかである。政府もそれを意識していたからこそ,士族反乱に対しては厳しい弾圧を,農民一揆に対しては弾圧とともに地租率軽減(1877年1月)のような譲歩策をもって対応した。それは士族と農民の巧妙な分断策でもあった。
かくして,西南戦争による西郷に象徴される士族の敗北は,士族反乱の目ざした政治路線の完全な破綻を意味した。それは同時に,士族解体の上に強行されてきた明治政府の政治路線および徴兵制による軍事編制と警察力の勝利を立証するものであった。政府に対する士族の武力反抗の無意味さは明らかになり,反政府運動は自由民権運動の全国的展開という新たな段階に到達したのである。
執筆者:田中 彰
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