明治維新後,旧武士階級に与えられた身分族称。1869年(明治2)6月の版籍奉還後,公卿や諸侯らが華族と称されたのに対し,藩士は一門以下平士にいたるまですべて士族と称した。このうち微禄の者は同年12月に卒とされ,士族は18等,卒は3等に分けられた。この士族のもとに,農工商は平民と称せられた。72年1月,卒は廃止され,世襲の卒は士族へ,一代抱えの卒は平民に編入された。ここに華族・士族・平民の3階級(身分)に国民は分けられたのである。ちなみに73年1月現在での士卒合計は,40万8823戸,189万2449人とされている。
1871年の廃藩置県以降,士族の特権は徐々に廃止され,73年1月の徴兵令や76年の廃刀令で士族の軍事独占的地位は失われ,73年以後の家禄奉還や秩禄処分,とりわけ76年の金禄公債証書発行条例は士族の経済的特権を奪い,多くの士族は生活に窮した。この特権喪失や明治政府の政策に批判・不満をもつ士族は相ついで反乱し,77年の西南戦争まで続いた。他面,その批判を自由民権運動に向ける士族も少なくなかった。また知識人として士族的矜持をもち,官・政界,軍人,学界,実業界,宗教界等の指導者になった者も多かった。しかし秩禄処分への不服はその後も尾を引いたため,政府は1897年,家禄賞典処分法(法律第50号)を公布し,1905年までに12万2000余件,29万2000余人の請願処理をした。1914年の戸籍法の改正で身分登記制は廃止されたから,以後の士族称呼はたんに家系が武士であったことを示すにとどまったが,敗戦後の1947年の戸籍法の全面改正で法的には士族称呼は完全に消滅した。
→士族反乱
執筆者:田中 彰
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明治維新後、新政府が旧武士に与えた身分呼称。1869年(明治2)版籍奉還とともに、旧来の四民(士農工商)からなる身分秩序の整理が開始された。旧公卿(くぎょう)と諸大名の藩主が華族に、旧幕臣、諸藩藩士、神官、寺院などの家士たちが士族に処せられた。翌年、士族の下層であった足軽(あしがる)などを卒族としたが、反対運動があったため、72年に彼らのなかで世襲の者を士族に、一代限りの者を平民に分属させて、卒族の呼称を廃止して、士族身分を確定した。73年当時、その数約41万戸弱、人口約189万人強であった。士族の身分は華族に次いで、平民の上に位置づけられ、また当面、家禄(かろく)や帯刀などの封建的特権が許されたこととも相まって、平民に対する彼らの感情を満足させた。一部には、政官界・学界・軍部などで指導者としての役割を果たし、また商工業の分野に進出した例もあったが、徴兵令、廃刀令、秩禄(ちつろく)処分などを経て、その政治・社会的地位は失われ、没落した者が多かった。生計の手段を失った士族のなかで、職人、教員、邏卒(らそつ)になったり、塾経営者に転身した者などはまだ成功したほうで、「士族の商法」に従って商売を始め失敗した場合も多かった。困窮士族のなかには、貧民街に住み日雇い人夫や乞食(こじき)になったり、強盗や自殺者までも出した例がある。新政府は、金禄公債を与え、資金を貸し付けて失業士族の授産政策を進めたが、彼らを救済することはできなかった。その結果、没落不平士族の不満は蓄積され、西南戦争に至る士族反乱に加わり、また1870年代に始まる初期の自由民権運動の担い手の一部になって活躍した者もあった。1947年(昭和22)戸籍法の改正により、士族は他の身分呼称とともに廃止された。
[石塚裕道]
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明治維新後,旧武士階級に与えられた身分呼称。1869年(明治2)6月公卿・諸侯を華族,一門以下平士以上の藩士を士族とし,同年12月には旧幕臣も含めてすべての士分を士族または卒とし,従来の石高に応じて家禄が給されることになった。72年に卒が廃止され,国民は華族・士族・平民の3身分となったが,士族・平民間の法的な身分上の差異はなくなり,さらに秩禄処分・廃刀令などで旧来の特権も廃止され,多くの士族が没落し士族反乱などもおこった。その後身分としての士族は形骸化し,1947年(昭和22)の戸籍法の全面改正により士族の呼称は消滅したが,士族的な精神はさまざまな意味で近代日本国家の形成に重要な役割をはたした。
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…彼らの給地は多くは1石程度であった。 1872年(明治5)太政官布告により郷士の多くは士族となった。【木村 礎】。…
…明治維新期,従来の士農工商などの封建的身分制を廃した政策。しかしこれで身分制はなくならず,華族・士族・平民に再編成され,被差別部落民も残存された。その過程は,1869年(明治2)6月版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に,平士以上の藩士などを士族としたことに始まる。…
…これに対しただちに人々が呼応したことは,福沢諭吉の《学問のすゝめ》やS.スマイルズ(中村正直訳)の《西国立志編》が爆発的なベストセラーになったことにみることができるが,そのようなすばやい呼応はすでに江戸時代にかなりの上昇移動意欲が潜在していたからである。 1872年(明治5)の学制施行の際出された就学告諭に見られるように,明治以後は立身出世は教育と結びつけて喧伝されたから,その担い手は士族の子弟を中心にして広がった。士族は知識階級であり,教育による立身出世の準備的条件があったからである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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